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藤浪晋太郎に黒田博樹が激怒「あの“死球”がトラウマになった」説も…藤浪晋太郎30歳がいま明かす“阪神時代に何があったのか?”《単独インタビュー》
text by

中村計Kei Nakamura
photograph byNumberWeb
posted2025/03/29 11:04

2月末、キャンプ地のアリゾナで取材に応じた藤浪晋太郎(マリナーズ)
その日もアリゾナは一片の雲すら見当たらない晴天だった。無人のグラウンドではグラウンドキーパーが小気味よい音を響かせてローラー車を運転している。
午後1時過ぎ、100mほど離れたクラブハウスの方から人が近づいてくるのが見えた。
大柄な選手が多いアメリカにおいても、その男のシルエットはやはり唯一無二だった。197cmという長身はもちろんだが、まるで男性化粧室の黒いマークのようにキレイな逆三角形の上半身と長い手足は遠目でも誰かすぐに判別することができた。
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この人物に話を聞くためにここまでやってきたのだ。そう思うと背筋が伸びた。
大谷翔平と一点でも交わった同年代の選手たちの、そこまでの野球人生と、それからの人生。大谷のことを書くわけでも、彼らに大谷のことを聞きたかったわけでもない。いや、正直に告白すれば、少しは大谷のことも聞きたかったのだけれども。
彼らの航跡を追うことで、何かが浮かび上がるのではないかと思った。「何か」はぼんやりとしていたが、その旅路の終着点だけは最初から決まっていた。
藤浪晋太郎である。
「お待たせしました」藤浪が姿を現した
大阪桐蔭時代、2012年に甲子園で春夏連覇を達成し、高校卒業後、阪神タイガースに入団してからは3年目オフに1億円を軽く超える年俸を手にした男でもある。そこまで藤浪は間違いなく同年代のトップを走っていた。
しかし、プロ入り4年目以降、藤浪のペースが少しずつ狂い始める。ときに走路から転げ落ちてしまったかのようにも映った。
一方、そのプロ4年目から、未だ人類が辿ったことのない道をものすごいペースで切り開き始めた男がいた。それが日本ハムファイターズの大谷だった。
それまで「藤浪世代」と呼ばれていた1994年4月から1995年3月に生まれた選手たちは気づけば「大谷世代」として括られるようになっていた。
藤浪はわれわれの目の前に現れるなり、「お待たせしました」と軽く頭を下げた。私の中での藤浪は大阪桐蔭時代も、阪神時代も、さほど記者を待たせていなくても、そう口にする折り目正しい人物だった。