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「エリートなどくそくらえっ!」年俸540万円、落合博満は12球団で“最も給料が安い”四番バッターだった…そして現れた“8000万円ルーキー”原辰徳 

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中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

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posted2024/10/26 11:03

「エリートなどくそくらえっ!」年俸540万円、落合博満は12球団で“最も給料が安い”四番バッターだった…そして現れた“8000万円ルーキー”原辰徳<Number Web> photograph by KYODO

1978年ドラフト3位指名、25歳でロッテに入団した落合博満。プロ3年目の1981年にはレギュラーに定着する

 1980年秋、長嶋茂雄監督が男のケジメで辞任し、19年連続のシーズン30本塁打を達成した王貞治も電撃引退。巨人は、いや球界は新たなスーパースターを欲していた。「週刊ベースボール」同号にはミスター本人から、大学球界のプリンス原への特別寄稿「君は私の後継者になれる」が寄せられ、ドラフト会議で4球団が1位競合するも、藤田元司新監督が当たりクジを引いた直後に、報知新聞の号外『原 巨人入団 長島超えろ若大将』が街で配られた。「週刊読売」では『新巨人の星 原辰徳物語』の短期集中連載が始まり、年明けの多摩川グラウンドには背番号8目当てに1万人ものファンが殺到。甲子園での父子鷹から、ドラフト1位の巨人入りまでの王道ストーリーをあらゆるメディアが追いかけ、タツノリフィーバーは日本列島を揺るがした。

「契約金は球団最高額8000万円だった」

 81年4月4日の後楽園球場、原は「六番二塁」で開幕の中日戦でデビューすると第3打席でプロ初安打。翌5日には小松辰雄から右翼席へプロ初アーチを放つ。開幕7試合目には五番昇格。期待通りの大活躍に「全角度比較 凄いぞ原辰徳の超パワーは長島茂雄を超えた」(週刊現代1981年5月7日号)とお祭り状態になり、落合が極度の緊張から打席で全身が痙攣したというオールスター第1戦では、全セの「一番遊撃」で先発出場している。

 ちなみにルーキー原の年俸は破格の推定840万円で、契約金は落合の2700万円に対して、原は当時の球団最高額となる8000万円だった。その年、若大将は打率・268、22本塁打、67打点で新人王に輝くが、落合は打率・326、33本塁打、90打点と三部門すべてで原を上回り、島田誠(日本ハム)や石毛宏典(西武)との首位打者争いを制し、初の打撃タイトルを獲得。だが、明治製菓、明治乳業、オンワード樫山といった大企業のテレビCMオファーが殺到するのは、巨人の背番号8である。

 翌82年には、落合が当時の最年少記録となる28歳で三冠王を獲得。瞬く間に球界最高峰の打者に上り詰めても、その状況は変わらない。視聴率20%超えの地上波テレビのナイター中継で毎晩主役を張り、世の中やメディアで、80年代のプロ野球の顔として人気を集めたのは、サラブレッド原だった。

落合「オレはタレントじゃなくて“野球人”」

 雑草とエリート――。ジャーナリストの佐瀬稔は、「『巨人』を変えた“華麗なるタツノリ”」(プレジデント1981年8月号)と題したコラムの中で、「原という、これはもう体制そのもののスター」と論じたが、あまりに対照的なニューヒーローに「すべてエリートずくめの巨人の原あたりにはない雑草のような逞しさが落合の魅力だろう。『エリートなどくそくらえの心境ですよ』というのも原への面当てか」(週刊ポスト1981年8月28日号)という論調の両者の比較記事もよく見られた。

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