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ぶら野球BACK NUMBER
「エリートなどくそくらえっ!」年俸540万円、落合博満は12球団で“最も給料が安い”四番バッターだった…そして現れた“8000万円ルーキー”原辰徳
posted2024/10/26 11:03
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
KYODO
40歳での鮮烈なFA宣言、巨人へ電撃移籍した落合博満……1993年12月のことだった。
あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 当時を徹底検証する書籍「巨人軍vs.落合博満」が発売され、即重版と売れ行き好調だ。その書籍のなかから、「じつは一度消えた“巨人・落合博満”」を紹介する。何度もウワサされたロッテ落合の巨人移籍はなぜ実現しなかったのか?【全2回の前編/後編も公開中】
あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 当時を徹底検証する書籍「巨人軍vs.落合博満」が発売され、即重版と売れ行き好調だ。その書籍のなかから、「じつは一度消えた“巨人・落合博満”」を紹介する。何度もウワサされたロッテ落合の巨人移籍はなぜ実現しなかったのか?【全2回の前編/後編も公開中】
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「12球団で最も給料の安い」四番バッター
「いまでもぼくは試合前がおそろしい。この世界は結果でしか判断してくれんでしょう」(週刊明星1981年7月16日号)
プロ3年目の1981年、レギュラーに定着した27歳の落合は、選ばれし者の恍惚と不安の中でバットを振っていた。自身初の打撃タイトル争いを繰り広げ、監督推薦で初出場したオールスターの第2戦では、西本幸雄監督が「これからのパ・リーグを背負って立つ男だから」と全パの四番で起用した。新聞の打率10傑に載る自分の名前にまだ現実感はなく、契約金で横浜市鶴見区にマンションを買ったが、年俸は中堅サラリーマンクラスの推定540万円。好物はラーメンライスで、川崎球場近くの喫茶店「オレンジ」でラークを吸って気分転換という、12球団で最も給料の安い庶民派四番バッターでもあった。
“ゴールデンルーキー”原辰徳のデビュー
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そして、落合がようやく辿り着いた夢舞台、1981年オールスター戦で、世間の注目を一身に集めていたのが、5歳年下のゴールデンルーキーだった。セ・リーグ三塁手部門で掛布雅之(阪神)をおさえてファン投票1位になった、巨人の原辰徳である。
「Nが去りOがバットを置いたいま、転換期のプロ野球を救うのはタツノリしかいないの声がふくらむ。実力、人気、スター性。果たしてタツノリは“80年代の牽引車”になれるか」(週刊ベースボール1980年12月8日号)