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球界関係者の怒り「落合のあの表情がダメ」「巨人がカネで四番を買うなんて恥だ」落合博満40歳のFA移籍…原辰徳は焦った「異例の猛練習」 

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中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

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posted2024/10/19 11:00

球界関係者の怒り「落合のあの表情がダメ」「巨人がカネで四番を買うなんて恥だ」落合博満40歳のFA移籍…原辰徳は焦った「異例の猛練習」<Number Web> photograph by KYODO

1994年2月、巨人での初めての宮崎キャンプ。40歳の落合博満は守備練習でこの鬼気迫る表情を見せた

「天下の巨人、名門巨人、優勝回数三十五回の最多優勝を誇る巨人が、金で四番打者を買うという、この現実が情けなくてたまらないのである。(中略)四番はチームの一枚看板である。それを毎年、買い込んできて恥ずかしいと思わないのだろうか」(小説新潮1994年2月号)

 長嶋茂雄や王貞治を輩出してきた球界の盟主がカネで四番打者を買う―。しかも、その看板をど真ん中で背負ってきた長嶋自ら、3年間優勝から遠ざかるチーム再建を40歳の外様スラッガーに頼った。導入されたばかりのFA制度を、これほど生々しく象徴する移籍は他になかった。いわば、落合博満は、巨人軍の伝統を破壊した男だった。

長嶋監督への不満「あくまでスターなんだよね」

 その長嶋巨人をFAで自ら飛び出して、1993年オフに横浜ベイスターズへの移籍を決断した駒田徳広は、週刊誌上で中畑清打撃コーチとの確執に加え、「長嶋さんという人は、管理者ではなく、あくまでスターなんだよね」と古巣への不満を口にした。

「個人的に長嶋監督は好きかって? 好きとか嫌いとか言える段階まで人間付き合いさせてもらってないもの。みんなそうだったんじゃない? それではチームとしてうまく機能しないですよ」(週刊現代1994年1月1・8日号)

 青年監督だった第一次長嶋政権の年が近い兄貴分から、第二次政権では親子以上に世代が違う。自分がそこにいては選手が遠慮して飯も不味くなるだろうという、国民的スーパースターの気遣いが結果的に選手との距離を生んでしまったのだ。昔を知るベテランの篠塚和典は、シーズン終了後に「選手たちは、監督からのちょっとした一言を待っているんです」と訴えた。これを反省したミスタープロ野球は、2年目の1994年になると頻繁に食事会を開き、積極的に選手と交流するようになっていくが、それはまた少しあとの話である。

原辰徳「落合さんが来るんだから…」

 そして、落合の加入により、すっかり“四番失格”の烙印を押された形になったチームの顔の原辰徳だったが、実は長嶋が巨人監督に復帰する前年、極度の打撃不振に苦しんだ1992年5月にアナウンサーの深澤弘に連れられて、田園調布の長嶋邸を訪ねている。マンツーマンの打撃指導を受けるためだ。打席で外角低めから視線を投手に移すので、左肩がホームプレートのほうに入ってしまう原の癖を指摘したミスターは、「外角ではない、内角だよ。そのあと投手を見るんだ。そうするとボックスのなかで、背筋を伸ばして自然体で立てる」と熱血指導。原は庭に面したリビングルームで真夜中に汗だくになって、1時間半もバットを振った。そこに冷たいお茶とメロンを持ってきた亜希子夫人は、楽しそうにこう言って笑ったという。

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