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「俺はお前の噛ませ犬じゃないぞ!」“じつは地味だった”長州力が覚醒した日…五輪に出場したレスリング選手は、なぜプロレスラーに転身したか
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by東京スポーツ新聞社/AFLO
posted2024/08/08 11:00
“噛ませ犬事件”でマイクアピールする長州力(1982年)
「俺はお前の噛ませ犬じゃないぞ!」長州が目覚めた日
’77年2月、約2年半の海外修行を終えて帰国。新日本は吉田のリングネームを「長州力」に変え、猪木、坂口征二に次ぐ第3の男として売り出したが、海外でプロレスの醍醐味を学ぶことができなかった長州の人気はなかなか上がらなかった。
そうこうしているうちに、’78年に先輩だが2歳年下の藤波辰巳がニューヨークでWWWFジュニア王者となり凱旋帰国。さらに’81年4月には3年後輩の佐山サトルがタイガーマスクとして登場し、社会現象となる人気となり、長州の存在感はますます薄くなった。
そんな中で起こったのが、いわゆる“噛ませ犬事件”だ。半年間のメキシコ遠征でUWA世界ヘビー級のベルトを獲得した長州は帰国後、’82年10月8日後楽園での6人タッグマッチの試合中、味方の藤波に対し反旗を翻し、「なんで俺がいつまでもお前の下なんだ。俺はお前の噛ませ犬じゃないぞ!」と宣戦布告を行なった。不遇の時代が長かったからこそ、長州の叫びは真に迫っており、その結果、多くの人々の共感を呼び、一躍「維新の志士」としてまさかの大ブレイクをはたすのである。
この長州の“造反”を焚き付けたのは、猪木だったというのが定説だ。猪木の助言を受けて行動に移した長州は、自分自身は何も変わっていないにも関わらず、あの後楽園でのアクションひとつで世界がガラリと変わったことで、ついにプロレスに目覚める。
マサ斎藤が“心の師”に
また長州の覚醒には、“心の師”となるマサ斎藤の存在も大きかった。噛ませ犬事件でブレイクした2カ月後、ニューヨークへ短期遠征に出た長州はそこでマサ斎藤と出会う。
マサ斎藤は’64年の東京五輪日本代表で、アメリカで一匹狼として成功したプロレスラー 。長州力は同じアマレス出身の成功者であるマサから、商業的に何をすべきなのか、プロとして何をすべきなのかという、大事なことを学んだ。このマサ斎藤との出会いが長州力を変えた。
ここから長州は押しも押されもせぬトップレスラーとなり、’90年代には新日本プロレスの現場責任者、マッチメーカーに就任した。マッチメイクはプロレスにおける総合演出ともいえる重要な役職であり、プロレスを熟知していないとできない仕事。長州力はプロレス入りしてから9年間、悩み燻った末にブレイクしたからこそ、プロレスの本質を最も理解する男となったのである。