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「俺はお前の噛ませ犬じゃないぞ!」“じつは地味だった”長州力が覚醒した日…五輪に出場したレスリング選手は、なぜプロレスラーに転身したか

posted2024/08/08 11:00

 
「俺はお前の噛ませ犬じゃないぞ!」“じつは地味だった”長州力が覚醒した日…五輪に出場したレスリング選手は、なぜプロレスラーに転身したか<Number Web> photograph by 東京スポーツ新聞社/AFLO

“噛ませ犬事件”でマイクアピールする長州力(1982年)

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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東京スポーツ新聞社/AFLO

 今からちょうど50年前。1974年8月8日、新日本プロレスの日大講堂大会で、のちの長州力こと吉田光雄がプロレスラーとしてデビューをはたした。

 専修大学レスリング部主将で、’72年のミュンヘンオリンピックにも出場した吉田光雄は、新日本プロレスにとって創立以来初めてとなる大物新人の入団。アマチュアでの実績では、吉田より1年早くプロレス入りした、同じミュンヘン五輪代表の全日本プロレス、ジャンボ鶴田よりも上だった。

 それだけに新日本のファン、関係者の期待も大きかったが、長州力がプロレスラーとしてブレイクするには、’82年10月に同門の藤波辰巳(当時)に対して反旗を翻した“噛ませ犬事件”まで、じつに9年もの歳月を必要とした。

 もともとプロレスファンではなかった長州は、なぜ新日本プロレスに入団したのか。そして長らく中堅として燻りながら、どのようにしてプロレスラーとして覚醒していったのか。あらためて振り返ってみよう。

立ちはだかった“国籍”の問題

 長州力こと吉田光雄は、高校3年時に’69年の長崎国体レスリングフリースタイルで優勝。特待生として専修大学進学後も1年から頭角を現し、大学2年時には全日本学生選手権で優勝。貴重な重量級レスラーとして、オリンピックでの活躍も期待された。

 しかし、そこで立ちはだかったのが国籍の問題だった。生まれも育ちも日本でありながら、韓国籍だった吉田は日本代表になることはできない。帰化して日本国籍を取得すればそれも可能となるため、帰化を勧める声もあったが、国籍を変えることへの同胞の反発も容易に予想された。

 そのため吉田は帰化はせず韓国代表を目指すことを決意。専修大学の鈴木啓三監督を始めとした関係者の尽力により、在日大韓体育会を介して韓国の五輪選考会に出場。全試合フォール勝ちの圧倒的な強さで優勝し、韓国代表としてミュンヘン五輪出場権をつかんだ。

 しかし、韓国代表チームの中で吉田は孤立する。吉田は韓国籍ではあるが日本で生まれ育ったため韓国語をまったく話すことができず、韓国代表の中で完全に浮いていた。また自国に住むレスラーを落として在日の吉田が代表となったことで、韓国での風当たりも強かった。

【次ページ】 なぜ吉田はレスリングを続けなかったのか?

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