ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「俺はお前の噛ませ犬じゃないぞ!」“じつは地味だった”長州力が覚醒した日…五輪に出場したレスリング選手は、なぜプロレスラーに転身したか
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by東京スポーツ新聞社/AFLO
posted2024/08/08 11:00
“噛ませ犬事件”でマイクアピールする長州力(1982年)
なぜ吉田はレスリングを続けなかったのか?
ミュンヘン五輪の選手村等で撮られた写真で、吉田が「KOREA」と書かれた韓国代表チームのジャージやブレザーを着た姿は1枚も残されていない。そこに彼の複雑な胸中を垣間見ることができる。
結局、ミュンヘン五輪での戦績は1勝2敗で敗退。思うような結果は残せなかったものの、その時はまだ20歳の大学3年生。4年後のモントリオール五輪を期待する声も多かったが、状況がそれを許さなかった。
当時の韓国アマチュアスポーツ界に4年間吉田の面倒を見る予算はない。また出場するなら韓国代表となるため、日本企業や自衛隊に入って練習することもできない。ヘビー級のアスリートは食費も相当かかるため、アマチュアとして引き続きオリンピックを目指すことは金銭的にも難しかった。
そのため吉田は大学4年でレスリング部主将となり、’73年の全日本選手権ではフリースタイルとグレコローマンの両方で優勝したあと、新日本プロレスのスカウトを受けプロレス入りする。当時、ヘビー級レスラーを文字通り食わせることができたのは、プロレスだけだったのである。
新日本プロレス入団時は“特別扱い”だったが…
’73年12月6日、吉田光雄は新日本プロレス入団記者会見を行なった。新日本の総帥アントニオ猪木も同席した華々しい会見だったが、入団後“プロの水”にはなかなかなじむことができなかった。
プロレスファンではなかった吉田は、職業としてプロレスを選んだもののアマチュアレスリング競技者としての誇りが、エンターテインメント性の高いスポーツにどっぷりと浸かることへの見えない壁となった。また、他の先輩レスラーにとっても特別扱いの新人の存在はおもしろいものではなく、オリンピックの韓国代表になった時に続き、吉田は新日本でも当初は“よそ者”扱いだった。
吉田は、’74年8月8日に日大講堂でエル・グレコとデビュー戦を行い、“プロレスの神様”カール・ゴッチ直伝という触れ込みの新技サソリ固めでギブアップ勝ち。プロレス初戦をそつなくこなしたが、この前年、アメリカ修行を経て鮮烈な日本デビューをはたした全日本のジャンボ鶴田と比べると地味で無難なデビュー戦だったため、この地味なイメージがその後何年もまとわりつくこととなる。
そしてデビュー3週間後、早くも海外武者修行に出発。当時、有望な若手レスラーは、本場アメリカでプロレスを学び帰国後スターになっていくのが通例だったが、当時の新日本はプロレスはアメリカのコネクションをほどんど持っていなかったため、行き先は西ドイツだった。
全日本の鶴田はテキサス州アマリロに送られドリー・ファンクJr.とテリー・ファンクの英才教育を受けることができたが、新日本はそういったケアはなく、吉田にはプロレスという特殊なプロスポーツの技術や醍醐味を教えてくれる人もいなかったのだ。
西ドイツ遠征の後、フロリダに住むカール・ゴッチのところに送られるが、吉田はそこでゴッチと衝突してしまう。ゴッチの指導は、いわゆる“シュート”の技術と体力をつけるための自重トレーニングが中心。アマチュアのオリンピックアスリートだった吉田からすれば、「そんなことより、プロレスという“仕事”を教えてくれ」という思いだっただろう。