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「親父でもプロになれるんだから、俺もなれるわ」高校生・山崎福也の宣言に父「ヒドいこと言うな(笑)」…巨人&日本ハムOBの父が語る「親子の物語」 

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佐藤春佳

佐藤春佳Haruka Sato

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photograph byHideki Sugiyama

posted2024/06/14 06:01

「親父でもプロになれるんだから、俺もなれるわ」高校生・山崎福也の宣言に父「ヒドいこと言うな(笑)」…巨人&日本ハムOBの父が語る「親子の物語」<Number Web> photograph by Hideki Sugiyama

日大三高時代は5番打者としてセンバツ出場も果たし、準優勝投手にもなった山崎福也。当時、父に対し大胆不敵な「プロ入り宣言」をしていたという

「う~ん、ベロビーチねぇ」

 ドジャースのベロビーチキャンプに派遣する米国留学メンバーとして“白羽の矢”がたった。ついこの前まで高校生だった18歳は突然アメリカへ。若手3人で約3カ月間チームに加わり、キャンプやオープン戦にも参加した。

スパイク磨き、ファンレター仕分け…

「もう訳がわからなかったです。レッズとオープン戦をやった時には(メジャーで通算311勝を挙げた)トム・シーバーや、(MLB史上最高の捕手と言われた)ジョニー・ベンチとか、有名なメジャーリーガーがうじゃうじゃいた。僕はメジャーに余り詳しくなかったので、日本に帰国して雑誌を見て彼らが凄い選手だと分かりました。写真撮っておけばよかった! って。あの時は残念でしたね」

 黄金期の巨人で一軍への道は険しかった。大きな壁となったのは正捕手である山倉和博。当時は捕手を併用するチームは少なかった。章弘さんは、練習に没頭するとともに、若手選手の大事な役割である“下積み仕事”にも明け暮れた。

「山倉さんのスパイクを磨いていました。先輩のスパイクがずらっと並んでいるのを綺麗に拭き上げて戻すのは若手の仕事です。洗濯物も仕分けしてランドリーバッグに詰めて、クリーニングから戻ってきたものをロッカーに配る。バス掃除もありましたね。寮では5、6台ある電話の前で電話当番や郵便配りも当番制で若手がこなすんです。ファンレターが毎日カゴいっぱいドサッと届くから、それを仕分けして配る。一番多かったのは定岡正二さん。ダントツでしたね。入りきれへんから、定岡さんの郵便物だけは大きなバケツに入れていました」

巨人での10年間は「濃い時間」

 一軍デビューまで、6年かかった。指揮官は長嶋から藤田元司を経て王監督になっていた。一軍初出場は86年6月の広島戦。リリーフとして登板した槙原寛己の代打だった。

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山崎福也
北海道日本ハムファイターズ
山崎章弘
兵庫ブルーサンダーズ

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