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プロ野球PRESSBACK NUMBER
15歳で「生存率10%」の難病が発覚…日本ハム・山崎福也の父が振り返る「小児脳腫瘍」からの復活劇「ダルビッシュ有に力をもらった…不思議だね」
posted2024/06/14 06:00
text by
佐藤春佳Haruka Sato
photograph by
Sankei Shimbun(L)/Haruka Sato(R)
「なんで優勝したチームから…」
期待通り、いやそれ以上かもしれない新天地での活躍に、父は少し驚き、何より安堵している。
「移籍を決めた時は正直、『なんで優勝したチームから最下位のチームにFAで行くねん』って思ったんです。でも開幕から2カ月見ていたら、すごく良いように使ってもらっているし、その期待に全部とは言わなくとも6、7割くらいは応えられている。もちろん、最終的には(契約期間の)4年間応え続けなきゃいけないですけどね。その辺はシビアですから、野球界は」
昨年オフ、山崎がFA権を行使した際にはオリックス含めた6球団の争奪戦となり、章弘さんの元にも球団幹部や監督から挨拶が相次いだ。山崎はそれぞれの球団の話を聞き熟考していたが、同じ野球界に身を置く父はあえて口を挟まないようにしていたという。
日本ハムにそんなに思い入れがあったなんて
「そんなの自分で決めないといけないでしょ。言ったのは『お金じゃないよ。自分が一番必要とされているところに行くのが一番いいんじゃないの』ってことくらい。野球やるのはあいつ。責任持てないですからね」
その助言通り、山崎が選んだのは条件面では他球団より決して高くなかった日本ハム。父が選手、コーチとして在籍していた「縁」と、球団側の熱意が決め手になった。
「正直びっくりしました。あいつが日本ハムにそんなに思い入れがあったなんて思っていなかった。小さな頃のこと、覚えていたんですね」
職場の鎌ケ谷に福也少年を連れて行く
山崎が生まれたのは現役を引退した翌年の1992年。章弘さんは、日本ハムで「二軍トレーニング兼打撃コーチ補佐」として指導者としての一歩を踏み出したばかりだった。現在ではコーチの役割も細分化し、外部からスペシャリストも登用されているが当時はその数も少ない。リハビリ組や、二軍でも試合に出ない若手選手をまとめて請け負う「育成コーチ」のような役割を任された。