Number ExBACK NUMBER
立浪和義はなぜ厳しい指導を貫けた? 本人が語る「原点」星野仙一、落合博満…冷徹と情熱の中日監督論「甘いだけで強くなるわけがない」
text by
喜瀬雅則Masanori Kise
photograph bySankei Shimbun
posted2024/04/17 11:01
最下位に沈みながら貫き続けた「厳しい」とも評される指導スタイル。就任3年目に結実しつつある指導哲学に迫った
1994年10月8日、勝った方が優勝という“史上最高の決戦”の巨人戦で、3点を追っての8回、三塁への高いバウンドの当たりを放った立浪は、一塁へヘッドスライディングして、左肩を脱臼。そのまま途中退場している。
その熱さが、今、中日には感じられない。
「高木さんになった時は、選手を大人扱いで一人前に見てくれたところはあるんですが、正直、チーム全体がちょっと緩みましたよね。高木さんは気を使って選手任せにしてくれたんですけど、星野さんから交代したらそりゃ緩みますよね、人間、誰でもね、ちょっとはね。ただやっぱり、プロ野球というのは、監督が誰であろうと、自分のことをしっかりやらないといけない。そういう意味では山田(久志)さんの時に4番を打たせてもらったりして、そこでもう一回、(心の)張りを与えてもらったというのはありましたね」
星野の退任後、その後を継いだ山田久志の監督1年目だった。
2002年7月、当時の助っ人、レオ・ゴメスが帰国。キューバの至宝と呼ばれたオマール・リナレスが途中入団したが、こちらも8月初旬から欠場。立浪は「4番」を務め、山田政権2年目の2003年7月5日には、球団史上3人目の通算2000本安打を達成、三塁手でゴールデングラブ賞は、遊撃、二塁に続き、史上初の3ポジションでの獲得となった。
落合監督のもとで経験した「はっきりした方針」
続く落合のもとで、立浪は“勉強”をさせてもらったという。
「落合さんの時は、最初はもうホントに、何も言われずに任せてもらった。プロだから結果を出せば当然ですよね。ただ、やっぱり衰えてきたり、結果が出なくなったりした時に代打に回された。もうほとんど口を利くこともなかったんですけど、控えを経験させてもらった。今でいうコミュニケーションも全くなく、ホントに力のある人が優遇されて、ダメな人は斬られていくという、はっきりした方針ですよね」
立浪の分類でいえば、高木、山田の今でいう“選手ファースト”の姿勢は共感しやすいだろう。ただ、そこに成績が伴わなければ、それは「甘さ」に繋がる。
中日が、どことなく今、緩く見えるのはその部分なのだろう。
最近、選手ファーストの時代になっている。でも…
立浪は、そこに師の“星野イズム”を注入しようとしているのだ。