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「彼は親友だった」あのピーター・アーツが号泣… “傷だらけの暴君”はなぜ戦い続けたのか? カメラマンの心が震えた「40歳、K-1最後の戦い」 

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長尾迪

長尾迪Susumu Nagao

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posted2024/03/23 17:11

「彼は親友だった」あのピーター・アーツが号泣… “傷だらけの暴君”はなぜ戦い続けたのか? カメラマンの心が震えた「40歳、K-1最後の戦い」<Number Web> photograph by Susumu Nagao

2010年の『K-1 WORLD GP』準決勝、絶対王者セミー・シュルトに猛攻を仕掛ける40歳のピーター・アーツ。この日がK-1での最後の戦いとなった

 アーツは2015年の大晦日に行われたRIZINの旗揚げ興行でも、怪我をしたジェロム・レ・バンナの代役として把瑠都とMMAルールで対戦した。試合のオファーがあったのは、六本木でのクリスマスのパーティー中だったそうだ。

アーツはもう終わってしまったのか?

 同世代の選手たちがトップ戦線から遠ざかっていくなか、アーツはその後もK-1で試合を続けていた。2006年、2007年ともにグランプリでは準優勝を果たす。

 彼の優勝を阻んだのがシュルトだった。シュルトは空手がベースの格闘家で、212cm、130kgの巨体ながらも器用で俊敏な動きを見せ、UFCやPRIDEなどのMMAで活躍しながらK-1でも戦った。2005年からK-1に本格的に参戦すると、年末のグランプリで初優勝。さらに2006年、2007年と3連覇した。2008年は不運な判定負けがあり、グランプリ本戦出場を逃すが、翌2009年には王者に返り咲いた。“難攻不落の最凶王者”とも呼ばれ、圧倒的な体格差で勝利する試合内容に対して、一部の関係者からは「シュルトの試合はつまらない、このままではK-1の人気が下がる」といった厳しい声も寄せられた。

 事実、K-1の人気は下降気味だった。2003年9月からK-1の運営が創設者の石井和義からFEGに変わり、東京ドームでの開催は2006年が最後に。翌年からは横浜アリーナへと規模を縮小していった。

 それはアーツとて同じだった。“20世紀最強の暴君”も、加齢による身体の衰えからは逃れられない。2007年のグランプリで準優勝したとき、アーツはすでに37歳。K-1の絶頂期だったころ四天王と呼ばれたフグは他界し、マイク・ベルナルド(2012年に死去)とホーストはリングを去った。2010年4月の京太郎戦では、日本人選手に初めてKO負けを喫した。

 アーツはもう終わってしまった――そう感じたのは私だけではなかったと思う。不惑を迎え、リングでのステップワーク、スピード、反射神経など、あらゆる面で衰えが見られる。絶頂期を知っている者にとって、そんなアーツを見るのが何よりも辛かった。あるいは、アーツ自身も「終わり」を予感していたのかもしれない。

絶対王者シュルトに挑んだ“K-1最後の戦い”

 2010年12月11日有明コロシアム。40歳のアーツがK-1で最後の試合をした日だ。トーナメント1回戦をKO勝ち。しかし準決勝の相手は、絶対王者のシュルトだった。

【次ページ】 「試合の後には、血尿が出たほどだった」

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