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「なるべく多く借金を背負いたい」“空白の1日”巨人・江川事件…悲劇のヒーロー・小林繁とは何者だったのか?「殴り合いもしたエース」
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKYODO
posted2024/03/16 17:01
1971年、ドラフト6位で巨人に指名された小林繁。“瘦身エース”のプロデビューは1973年だった
「男として中途半端な生活をするより、サラリーマンに徹するか、プロとして賭けてみるか、道はひとつしかないんじゃない」(「週刊現代」1976年6月3日号)
そんな年上彼女のエールにも背中を押され、1972年夏に全大丸を都市対抗野球に導き、会社に恩返ししたのち、小林は父親が大のファンだった巨人入りを決断する(当時は一旦拒否するも、1年以内にプロ入りする選手も多数いた)。その端正なマスクで“巨人の森進一”と話題になり、女性人気が抜群に高い選手でもあった。
「殴り合いのケンカもしたルーキー」
元デパートの店員らしくファッションにはこだわり、宴会があるとジャージではなく、アイビースタイルのブレザーで出掛ける小洒落た一匹狼。だが、当然そんな小林を面白く思わない先輩選手も出てくる。寮生活で嫉妬まじりに露骨に無視をされたり、遠征中のバスの中で殴り合いのケンカをして右目の上を縫う怪我を負ったりしたこともあった。その負けん気の強い性格はプロ向きで、二軍の北海道遠征で連投を重ねて、投球の幅が広がり1年目からイースタン・リーグ優勝の胴上げ投手に。それでも、こんなところからは早く抜け出してやると一軍に上がることしか頭になかった。
すると、その直後、V9最後のシーズンの1973年終盤に一軍デビューを果たすのだ。当初は客席から、無名の痩せっぽちのルーキーに対して辛辣なヤジも飛んだが、「お客さんが多ければ多いほど投げがいがある」というハタチの強心臓ぶりを川上哲治監督も高く評価した。10球もウォーム・アップすればすぐ投げられる肩と、マウンド度胸はチーム1、2位を争うと言われる肝っ玉を併せ持つ小林は、リリーフで起用され、10月の阪神との天王山でも堂々たる投球を見せるのだ。
巨人9連覇のラストイヤーに貢献した小林は、1974年に早くも背番号40から19へと変更になり、4月にはプロ初勝利。「週刊ベースボール」1974年5月13日号では、「たった62kgで大巨人軍の屋台骨支えるファイヤーマン小林の驚異」という記事でこう紹介されている。
「投げるとき一度足を胸の前で止める変則的投法で、ポンポンと投げ込むピッチングは、馴れてくるとタイミングを合わされやすい危険性はあるが、そこは持ち前の強心臓とシュート、スライダーなど七種類。つまり七色の変化球をあやつって、相手打者を軽くひねってしまう」
「もうやめてやる!」プロ3年目の事件
胃腸が弱くて牛乳さえ受け付けず、体重はなかなか増えなかったが、その野球選手らしからぬ風貌で投げまくる姿が“細腕繁盛記”と人気を呼んだ。