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野村克也も苦言「誰のおかげで野球ができているんだ!」巨人・落合博満の“ワガママ”に球界大物がキレた…“名球会拒否”事件とは何だったのか? 

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中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

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posted2024/02/25 11:06

野村克也も苦言「誰のおかげで野球ができているんだ!」巨人・落合博満の“ワガママ”に球界大物がキレた…“名球会拒否”事件とは何だったのか?<Number Web> photograph by ベースボール・マガジン社

1995年4月15日、巨人・落合博満(41歳)の2000本安打達成会見。名球会入りを“拒否”することを表明

 長嶋監督は、「本人の意思次第だし、何か考えがあってのことでしょうからねぇ」と決断を容認したが、なにしろ入会辞退は初めてのケースで、翌日には、ヤクルトの野村克也監督からの批判のコメントもスポーツ各紙で取り上げられた。

「本当に(名球会に)入らないのか? 協調性がないというか、何かにつけて悪い前例を作る。誰のおかげで好きな野球が出来て何億という大金を稼いでいるのか。名球会は社会への恩返しをしようという団体なんだ。引退も近いし、今度は恩返しする番なのに……」(スポーツニッポン1995年4月16日付)

落合の“ワガママ”「名球会から嫌われた」

 なお、この1995年の世の中は1月の阪神・淡路大震災と、3月の地下鉄サリン事件で騒然としており、ベースボールマガジン1995年冬季号「スポーツ新聞一面徹底分析」によると、スポーツニッポンは4月11日から5月9日まで28日連続オウム関連の一面で、東京中日スポーツの5月のプロ野球一面回数はゼロだった。さらに6月以降は、近鉄からメジャーリーグのドジャースへ移籍した野茂英雄のトルネード旋風が一面を度々独占。主要6紙のスポーツ新聞で、大リーグ関連の一面は前年わずか3回だったのが、1995年は野茂効果で一気に178回へと激増している。平成のプロ野球を取り巻く環境も大きく変化しつつあった時期に、落合は昭和球界の象徴ともいえる「名球会」と向き合うことになる。

 しかし、当初は一匹狼特有のワガママと見る向きも多く、週刊文春1995年4月27日号で「名球会から嫌われた『落合』の不徳」記事、週刊ポスト1995年4月28日号には「落合博満夫妻が『名球会入り』を拒否した過激な理由」特集が掲載された。会の創設者でもある金田正一は「誰も入ってくれといっとらん任意団体に対して、辞退だの拒否だのと、どうしていえるのよ」とわれ関せずの立場を表明。他にも名球会会員たちの「まァ、落合だけは別ってことなんでしょう」「彼はフツーの選手とはかなり変わってるよね」なんて皮肉交じりの言葉と、信子夫人の「今は巨人の4番を打つことで必死ですから、名球会なんていわれても、考えているヒマなんてないんですよ」という両サイドのコメントが確認できるが、加えて落合記念館を巡る両者のすれ違いもあった。

【次ページ】 落合の本音「名球会は選手生命の終わり」

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