巨人軍と落合博満の3年間BACK NUMBER
巨人OBは落合博満批判を続けた「41歳の落合に居場所ない」“33億円補強”巨人がまさかの最下位転落…そして落合の“名球会拒否”事件が起きた
posted2024/02/25 11:05
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
KYODO
あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 本連載でライター中溝康隆氏が明らかにしていく。
連載第14回(前編・後編)、41歳の落合は巨人2年目(1995年)を迎えた。しかし、まさかの最下位、そして“名球会拒否”と波乱のスタートとなる。【連載第14回の前編/後編も公開中】
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星野仙一に年賀状を出さなかった男
「怪我が幸いしたよね、じっくり治療に専念できたから。例年のように年明け1月、2月になってから野球を始めたのであれば、開幕に間に合っていないと思う。それに、これから先も長く野球を続けていこうと思ったら、ゆっくり休んでぼちぼち始めるのではなく、週に2~3日でもいいから練習を続け、新しいシーズンに備えるのがいいのかもしれない」(激闘と挑戦/落合博満・鈴木洋史/小学館)
1995(平成7)年春、落合博満は巨人一軍がキャンプを打ち上げたあとの3月も宮崎にひとり居残り、独自調整を続けた。負傷した左脚の状態を確かめるようにウォーキングやランニングメニューを黙々とこなし、エア・テント内で納得のいくまでバットを振る。その打撃練習の様子を視察した、前年までの阪神のチーフ兼打撃コーチで解説者の石井晶氏は、背番号6の技術の高さに驚いたという。
「カーブ・マシンばかり170球くらい打つのを見とったんやが、一球一球きっちり考えながら打っとる。まったく軸がブレへんし、今年も要注意や。広沢とかマックと比べても一番イヤラしいし、開幕には当然、四番に入ってくるやろうな」(週刊ベースボール1995年3月13日号)
なにかと周囲に気を遣っているように見えた移籍初年度とは違い、巨人2年目は個人メニューでの練習を消化するため、ベテラン組ともほとんど顔を合わせないマイペースぶりだった。これまで多くの移籍選手が、「伝統の巨人軍」と同化しようと苦しんだが、この男には関係なかった。契約を交わしている以上は巨人のために戦うが、決して巨人に媚びることはない。中日時代、星野仙一監督に、チームで落合だけが年賀状を出さなかったという。それがオレ流の生き方だった。
巨人OB「落合に居場所はない」
そんな主砲の独自調整に長嶋茂雄監督は、左足首ねんざでスロー調整中の20歳の松井秀喜と比べて、「テントのおじさん(落合)のほうが元気ですよ」と笑ってみせたが、同時に総額33億円を費やした大型補強にも手応えを感じていた。