誰も知らない森保一BACK NUMBER
「高校まで全く無名だった」森保一監督の人生を変えた“1通の年賀状”…なぜ名門マツダに入団できた? 同期は疑問「なんでこいつおるんやろ?」
posted2024/02/03 11:03
text by
木崎伸也Shinya Kizaki
photograph by
AFLO
◆◆◆
森保の運命を変えた「一通の年賀状」
森保一が高2の冬、長崎日大高校の下田規貴監督は1通の年賀状を送る。
宛て先は広島。マツダ総監督の今西和男への年賀状にこう綴った。
「とにかくひたむきにやる選手がいるから観に来てください」
今西はある地方大会で下田と知り合い、互いの家を行き来する仲になっていた。親友がそこまで言うのなら行かざるをえない。
それに今西には被爆地である長崎に特別なシンパシーがあった。1945年8月、今西は4歳のとき、広島市に投下された原子爆弾で被爆してしまう。爆心地から約2kmの場所で閃光に襲われ、後遺症で左足の指と足首を自由に動かせなくなってしまった。それでも日本代表に選ばれる選手にまで登り詰め、サッカーに人生を救われた。だからこそ今度は自分が助ける番だと考えていた。
第一印象「速くない、うまくない、高くない…」
森保が高3になる春、今西は当時マツダのコーチだったハンス・オフトを引き連れて長崎日大高を訪れた。
今西は17歳だった森保の第一印象をこう振り返る。
「足は速くない。ボール扱いもうまくない。背が高いわけではないからヘディングも強くない。森保にはわかりやすい特徴がなかった。
ただ、オフトが『日本人はボールを持つとみんな下を向くのに、あいつは上を向いてキョロキョロしている』と言ったんです。土のグラウンドでボールを扱うのが難しいのに、森保は顔を上げていた」
それ以降、今西は継続して長崎日大を訪れるようになる。森保と接する時間が増えると、下田が言う「ひたむきさ」の意味がだんだんわかってきた。会話のとき、森保は相手の目を食い入るように見つめてくる。
「当時は目上の人の話を聞くときに下を向く方が礼儀正しいという風潮があり、目を見て聞く選手は少なかった。でも森保は違った。意志の強さを感じました」
「森保を見に来たのか、潜りに来たのか…」
森保にとって幸運だったのは、今西が大の「素潜り」好きということだった。長崎日大は諫早湾のすぐ近く。その諫早湾に魅了された今西は自分のウェットスーツを下田の家に置き、森保視察のたびに海に潜っていたという。
今西は冗談を交えて言った。