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「高校まで全く無名だった」森保一監督の人生を変えた“1通の年賀状”…なぜ名門マツダに入団できた? 同期は疑問「なんでこいつおるんやろ?」
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木崎伸也Shinya Kizaki
photograph byAFLO
posted2024/02/03 11:03
![「高校まで全く無名だった」森保一監督の人生を変えた“1通の年賀状”…なぜ名門マツダに入団できた? 同期は疑問「なんでこいつおるんやろ?」<Number Web> photograph by AFLO](https://number.ismcdn.jp/mwimgs/7/e/700/img_7e0049a63e8c0096a92cbae2d773a14d378687.jpg)
1993年9月の日本代表合宿で。森保は当時25歳。この前年に初めて日本代表入りするまで、ほぼ“無名”の存在だった
「ウェットスーツは結構重い。そこでシモちゃん(下田監督)の家に置かせてもらったんです。よく『森保を見に来ているのか、潜りに来ているのかわからない』とからかわれました。確かに視察のうち半分は潜りがメインだったかもしれん(笑)」
森保は新卒候補リストに選ばれ、愛媛で行われたテスト合宿に参加した。そこでも「話を聞く態度」が評価され、マツダからのオファーを勝ち取ることになる。
下田の教え子をなんとかしたいという想い、オフトの才能を見抜く目、今西のフットワークが重なり、「無名選手の日本リーグ行き」という奇跡が起きたのだった。もしあの年賀状がなかったら、森保はプロ選手になれていなかったかもしれない。
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紆余曲折を経て、森保はほぼ期待されないまま実業団に入ったのだった。つまり、無駄なプライドなど持ちようがないスタートだったのである。
同期は疑問「なんでこいつおるんやろ?」
人生とはおもしろいもので、「ビリ」という最低評価が森保の強みになる。
森保が入団した1987年にコーチから監督に就任したオフト。オランダ人監督のサッカー理論は日本では馴染みがなく、高評価で入団した選手たちは適応に苦しんだ。森保とは違い、全国でも有名な高卒選手たち。彼らは自分のやり方に自信があり、オフトの考え方と摩擦が起きる。一方、「ビリ」の森保にはこだわるべき自己流などない。オランダ人監督の指示をすべて受け入れ、自分のものにしようとした。
山口県立宇部工業高校からマツダに入った同期・利重忍は、今西から同期で最も高く評価されており、まさに前者のタイプだった。
利重が経営する広島市の飲食店『BAR GAJA』を訪れると、元快速FWは笑顔で振り返った。
「僕は自分のサッカースタイルを変に持っていて、オフトさんから『三角形をつくりなさい』、『カバーリングをしなさい』と言われても『いや、俺はこうやる』と聞かなかった。オフトさんから結構怒られました。それに対して森保はオフトさんの話をしっかり聞き、言われた通りにやっていた。
森保は特徴がなく、当初は同期から『なんでこいつおるんやろ?』と見られていました。走りのメニューでも森保だけついて来られなかった。歯を食いしばって『ウー』と声を絞り出して追いかけてくる姿をよく覚えています。ただ、あいつのすごいところは人から吸収してコツコツ積み上げられることなんですよ。気がついたら、同期は全員抜かれていました。
まあ、元々がやんちゃですから、気合は入っていますよね。本気を出すとすごい(笑)」
最初は負けていても、謙虚に、貪欲に、執念深く人から吸収すれば必ず追い抜くことができる――子会社採用という屈辱を乗り越えたときに、森保はそんな教訓を得たのではないだろうか。
同部屋だった先輩「森保は吸収の天才」
マツダの寮で同部屋だった8歳上の今川正浩(現・東海大サッカー部総監督)は、18歳森保の成長を間近で見たひとりだ。森保の入団1年目、2人部屋で約1年間をすごした。