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センバツでビックリ初出場…“ペリー来航より古い”公立校・耐久ってどんな高校?「じつは部員わずか19人」「終戦後に消えかけた校名」 

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柳川悠二

柳川悠二Yuji Yanagawa

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posted2024/01/27 06:00

センバツでビックリ初出場…“ペリー来航より古い”公立校・耐久ってどんな高校?「じつは部員わずか19人」「終戦後に消えかけた校名」<Number Web> photograph by Yuji Yanagawa

和歌山・耐久高校の近くにある「稲むら火の館」。同校創立者の濱口梧陵の偉業を伝えている

終戦直後に「校名変更」の危機が…

 福澤諭吉の慶應義塾の創立(1858年)より6年も早く開校した耐久高校の野球部100年史を開くと、約120年前の創部(1905年)から確認できるだけで17回もユニフォームのデザインが変更されている。それも毎回、大幅な刷新だ。これが仮に、伝統校の慶應義塾や早稲田でユニフォーム変更となれば、大騒動に発展するだろう。

「強豪校であれば、ユニフォームを頻繁に変更することもないんでしょうが……うちの野球部は歴史こそあれ、伝統はないんです」

 そう笑ったあと、井原監督はなんとも寂しい表情を浮かべた。

 耐久高校は現在、学制改革時に合併した有田高等女学校の跡地(湯浅町。広川町に隣接)に所在するが、濱口が建造した耐久社は広川町立耐久中学校に現存し、日本遺産に指定されている。校内や湯浅町および広川町を歩くと、濱口梧陵にまつわる歴史的建造物が点在し、地域に語り継がれてきた創立者の偉功が肌で感じられる。

「耐久の名は、終戦後、進駐軍の視察によって変更の危機があった。『耐久』の2文字が戦時下の標語を想起させる、と。ところが、当時の英語教師が、濱口が晩年にアメリカ大陸に渡りニューヨークで亡くなったことを進駐軍に伝えると、そんな人物が創った学校なら名を残そうとなったようです。創設時よりずっと耐久の名が残っていることがまず奇跡なんです」

 そう話したのは女子バレーボール部の顧問で、28年間にわたって母校でもある耐久で教鞭を執る白井敏之教諭だ。この地に生まれ育った白井教諭の案内で校内を散策すると、耐久高校の卒業生で、日本を代表する彫刻家だった木下繁(1988年没)が制作した巨大な濱口像や、台座に「爽」の一文字が彫られた裸婦像があった(学校教育の場に裸婦像があるのも珍しいだろう)。

【次ページ】 「あの小泉八雲も称えた」創立者の偉業

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