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甲子園の風BACK NUMBER
センバツでビックリ初出場…“ペリー来航より古い”公立校・耐久ってどんな高校?「じつは部員わずか19人」「終戦後に消えかけた校名」
text by
柳川悠二Yuji Yanagawa
photograph byYuji Yanagawa
posted2024/01/27 06:00
和歌山・耐久高校の近くにある「稲むら火の館」。同校創立者の濱口梧陵の偉業を伝えている
「あの小泉八雲も称えた」創立者の偉業
さらに高校から歩いて20分ほどの広川町へと足を延ばすと、「稲むら火の館」が見えてくる。安政元年の11月5日(新暦では1854年12月24日)の夕刻、安政南海地震が発生した際、「大きな地震のあとには津波が到来する」との知見があった濱口は、暗闇の中、自宅敷地内にある田んぼの稲むらに火を放ち、逃げ遅れた村人を広八幡神社へと誘導して多くの命を救った。のちに、文筆家の小泉八雲ことラフカディオ・ハーンが濱口を「A Living God(生き神様)」と称した所以であり、2015年に国際連合は安政南海地震の起きた旧暦の11月5日を「世界津波の日」に制定した。こうした濱口の偉業と教訓を後世に伝えるために、稲むら火の館の敷地内には濱口梧陵記念館と津波防災教育センターがある。白井教諭が続ける。
「梧陵さんのすごいところは、自宅を津波で流された人に私財を投げ打って仮設住宅のようなものを建てて住まわせ、漁具を失った漁師に新しい漁具を提供したことですよね。さらに、次に津波が押し寄せた時に備え、約1キロの広村(梧陵)堤防を作った。吉田松陰がこの生き神様の『耐久社』を参考にして松下村塾を作ったというのも頷けます。その後、梧陵さんは大久保利通の要請によって、初代駅逓頭(えきていのかみ、のちの郵政大臣)に就任し、1885年にお亡くなりになりました」
2024年が明けた元日に能登半島地震が起き、日本列島に津波警報が鳴り響いた。そんな年に、耐久社の流れを汲む耐久高校が甲子園にたどり着くというのも何かの因縁なのだろうか。
赤山侑斗主将は言う。
「もともと歴史ある学校だということはわかって入学しましたが、注目を集めることで改めて歴史の重みを感じています。この冬は甲子園で戦える身体作り、チーム作りを目標に練習に取り組んでいます」
学校創設から172年、創部からは120年目を迎えた耐久高校は昨秋、なぜ快進撃を遂げられたのか——。
〈つづく〉