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甲子園の風BACK NUMBER
センバツでビックリ初出場…“ペリー来航より古い”公立校・耐久ってどんな高校?「じつは部員わずか19人」「終戦後に消えかけた校名」
posted2024/01/27 06:00
text by
柳川悠二Yuji Yanagawa
photograph by
Yuji Yanagawa
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ペリー来航の前年にして、安政の大獄の6年前にあたる嘉永5年(1852年)——。幕末の実業家で、醤油醸造業(1645年創業、現・ヤマサ醤油)の棟梁であった濱口梧陵(ごりょう)が紀州の広村(現在の和歌山県有田郡広川町)に開いた私塾が「耐久社」だ。「耐久」の2文字はそのまま「たいきゅう」と読む。
その後、耐久社、耐久学舎、耐久中学と名称を変更しながら1920年に県立となり、1948年の学制改革により耐久高校となった。創設から171年目を迎えた昨年の秋、同校の硬式野球部は近畿大会でベスト4に進出し、今春、初めて甲子園の土を踏む。
部員19人…強豪ひしめく和歌山で
就任5年目の井原正善監督(39歳)が話す。
「私にとっても耐久は母校ですから、監督を引き受けた以上、なんとか史上初めて、甲子園に連れて行きたいと思っていました。ただ、和歌山には全国制覇の経験がある箕島や智弁和歌山があり、市立和歌山、和歌山東といった学校も大きな壁として立ちはだかります。私が学生時代も、そして彼らも、県内のライバル校に勝って甲子園に出場することは夢のまた夢であり、現実的には21世紀枠を目指すしかないと思っていました」
ところが、昨秋の和歌山大会では智弁和歌山に勝った田辺を決勝で退けて初優勝を果たし、40年ぶりに出場した秋季近畿大会では社(兵庫)、須磨翔風(兵庫)を破ってベスト4進出。接戦あり、逆転のゲームありと、校名の如く耐え忍んで3月18日から開催されるセンバツの切符を実力でたぐり寄せた。
現在の耐久高校の生徒数はおよそ600人。野球部員は20人のベンチ入りメンバーに満たない19人の選手と、2人の女子マネジャーである。