「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
「あんな男が、ジャイアンツのユニフォームを着ていていいのか?」広岡達朗が大乱闘に激怒…八重樫幸雄が見た“笑わない監督”のヤクルト時代
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byKYODO
posted2024/01/19 11:03
“鉄仮面”を貫いたヤクルト監督時代の広岡達朗。「巨人の広岡として死にたい」と語るなど、古巣への思いは並々ならぬものがあった
シピンは猛烈な勢いで走り出し、マウンド上の鈴木に襲いかかる。すぐさま、一塁を守っていた大杉勝男が援軍に入ると、両軍ベンチから選手が入り乱れ、収拾のつかない状況となった。シピンは退場を命じられ、鈴木も5失点で早々に降板を余儀なくされた。さらに5回には自打球が顔面に直撃し、12針を縫う大ケガで大杉も退場する。
巨人に入団し、「巨人の広岡として死にたい」と訴えてユニフォームを脱いだ広岡は「ジャイアンツ」というブランドに、誰よりも誇りを持っていた。だからこそ、その巨人を倒すことに執念を燃やしていた。そんな広岡にとって、シピンの蛮行は許せなかった。「あんな男が、ジャイアンツのユニフォームを着ていていいのか?」「それでも長嶋は、シピンを使い続けるのか?」「今のジャイアンツはここまで落ちぶれてしまったのか?」と憤るとともに、「この試合は絶対に落とせない」という強い思いが芽生えてくる。その結果、前夜に続いてこの日も、広岡にとっては異例の継投となった。
鈴木が2回で降板すると、その後は会田照夫、さらに連夜の登板となる安田、松岡を投入した。「先発ローテーションの確立」を標榜していた広岡には信じられない、なりふり構わぬ継投を見せたが、結果的に7対7の引き分けに終わった。勝てなかった。けれども、負けなかった。序盤に5点をリードされたが、それでも何とかドローに持ち込んだ。後に振り返ったときに、この試合はヤクルトにとって大きな意味を持つこととなる。入院中の八重樫にとっても、この一戦は深く記憶に刻まれる激闘となった。
「広岡さんが笑ったところを見たことがなかった」
これまで、当時のヤクルトナインに「広岡監督の印象は?」と尋ねると、若松も松岡も大矢も「厳しかった」「いろいろ怒られた」と語っていたが、八重樫の場合は「一度も笑ったところを見たことがない」と口にした。
「僕にとっての広岡さんは、“とても厳しい人だな”っていう印象かな? だって、コーチとしてヤクルトに入団した74年から79年に監督を辞任するまで、一回も笑ったところを見たことがないんだから。何しろ、優勝を決めたときでさえ笑わなかった。その後、82年から広岡さんは西武ライオンズの監督になるでしょ? あるとき、ベンチに座る広岡さんの姿をテレビで見てビックリしたことを、よく覚えていますよ。だって、広岡さんが笑っていたから(笑)。それぐらい、笑ったところを見たことがなかったですね」