「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
「王貞治より稼げるぞ」ヤクルトの“打てる捕手”八重樫幸雄はなぜ名将に愛された?「入院中に森さんが…」“広岡達朗の名参謀”の無茶振り秘話も
posted2024/01/19 11:02
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
KYODO
「来年から森がコーチになるから、あいさつに行け」
川上哲治監督によるV9時代の司令塔である森昌彦(現・祇晶)が、広岡達朗に請われてヤクルトのバッテリー・作戦コーチに就任したのは1978年のことである。広岡は自著『私の海軍式野球』(サンケイドラマブックス)において、次のように述べている。
《さて、森を誘ったのは、五十一年の暮れである。けれども、このときは双方にいろいろと事情もあって話はまとまらなかったが、翌五十二年暮れのときは、森も快諾してくれた。
前にもふれたが、森を選んだのは、ただ気心が知れているというだけの理由では、むろん、ない。いわゆる学閥とか人脈といった構成をとるとロクなことがないのは私も知っていた。
気心の知れていることは重要なことだが、それ以上にかんじんなのは、その人の野球に対する姿勢である。》
76年(引用文中の五十一年)と言えば、シーズン途中で監督代行となった年だ。つまり、2年越しのラブコールであり、広岡は当初から森のことを高く評価していたのだ。しかし、八重樫幸雄はその前に、すでに森とニアミスしていたという。
「あれは75年の夏だったと思うんですけど、当時の荒川(博)監督にいきなり呼ばれて、“来年から森がコーチになるから、自宅にあいさつに行け”って言われました。それでご自宅に行くと、ガウンを着た森さんが出てきていろいろお話ししたんですけど、結局、家庭の事情があったのか、その年はこなかったんですよ」
八重樫の記憶が確かであれば、荒川監督時代にすでに森の招聘を画策していたということになる。王貞治を世界のホームラン王に育てた荒川は、八重樫の打撃を高く評価しており、シーズン中も自宅に招いて一本足打法を伝授していた。「アイツのバッティングなら5000万は稼げるぞ」と、当時在籍していた井上洋一に語ったこともあるという。大卒初任給が8万円台だった当時の「5000万円」と言えば、あの王貞治よりも高年俸である。