「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER

「あんな男が、ジャイアンツのユニフォームを着ていていいのか?」広岡達朗が大乱闘に激怒…八重樫幸雄が見た“笑わない監督”のヤクルト時代

posted2024/01/19 11:03

 
「あんな男が、ジャイアンツのユニフォームを着ていていいのか?」広岡達朗が大乱闘に激怒…八重樫幸雄が見た“笑わない監督”のヤクルト時代<Number Web> photograph by KYODO

“鉄仮面”を貫いたヤクルト監督時代の広岡達朗。「巨人の広岡として死にたい」と語るなど、古巣への思いは並々ならぬものがあった

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長谷川晶一

長谷川晶一Shoichi Hasegawa

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ヤクルトの選手として広岡達朗の指導を受けた八重樫幸雄は、「広岡さんが笑ったところを見たことがなかった」と往年を振り返った。巨人に猛烈な対抗意識を燃やす広岡と、コンプレックスを払拭しようと奮闘したヤクルトナインの情熱はやがて“大乱闘”へと発展し……。八重樫の証言から、1978年当時の巨人とヤクルトの関係、そして現役時代に「巨人の広岡として死にたい」と語った広岡の屈折した思いに迫った。(連載第19回・八重樫幸雄編の#3/#1#2#4へ)※文中敬称略、名称や肩書きなどは当時

「広岡さんの言うように、コンプレックスがあった」

 左ひざ内側側副靭帯断裂のため、チームメイトと離れ、試合に出ることができなかった八重樫幸雄は、スポーツ新聞やテレビ中継で戦況を確認する日々が続いた。冷静な目でチームを見ていると、前年までになかった「勢い」や「強さ」に気がついた。監督就任以来、広岡達朗が掲げ続けた「ジャイアンツコンプレックスの払拭」が目についたのだ。

「広岡さんの言うように、あの頃は確かにジャイアンツコンプレックスがあったと思います。試合する前から相手に呑まれていたし、たとえリードしていても、“どうせ追いつかれるだろう”という感覚がありました。追加点を奪われるたびに、ピッチャーは小さくなって、野手は固くなってしまう。その結果、やっぱり逆転されてしまう。攻撃していても、固くなっているから絶好球にも手が出ない。そんな雰囲気は確かにありました」

 実際にキャッチャーマスク越しに見るON――王貞治、長嶋茂雄――の存在感は絶大だった。ちなみに、1977年、王が756号を放ったときにマスクをかぶっていたのが八重樫だった。

「王さんも長嶋さんも、チャンスで打席に入ったときの集中力はすごかった。特に長嶋さんは後ろで何かあっても、決して振り向かずにピッチャーだけを見ていました。対する王さんはどんなときでも常に動じない。そして、本当に選球眼がよかった。あの2人は別格でしたけど、V9の頃は1番バッターから、ピッチャーを含めた9番まで息を抜くことができなかった。本当にぬかりのないイヤな打線でした」

 ところが、76年途中に広岡が監督に就任し、78年に森がコーチとなったことで状況は少しずつ変わっていく。

【次ページ】 「ジャイアンツコンプレックス」を払拭した試合

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