「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER

「あんな男が、ジャイアンツのユニフォームを着ていていいのか?」広岡達朗が大乱闘に激怒…八重樫幸雄が見た“笑わない監督”のヤクルト時代 

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長谷川晶一

長谷川晶一Shoichi Hasegawa

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posted2024/01/19 11:03

「あんな男が、ジャイアンツのユニフォームを着ていていいのか?」広岡達朗が大乱闘に激怒…八重樫幸雄が見た“笑わない監督”のヤクルト時代<Number Web> photograph by KYODO

“鉄仮面”を貫いたヤクルト監督時代の広岡達朗。「巨人の広岡として死にたい」と語るなど、古巣への思いは並々ならぬものがあった

広岡達朗が断った巨人からの「八重樫トレード案」

 そして、八重樫は意外な事実を口にした。

「広岡監督時代のことだけど、当時ジャイアンツの監督だった長嶋さんから、トレードの打診があったそうです。僕が知ったのは、現役引退後のことですけどね。どういう意図で長嶋さんがトレードを希望して、ジャイアンツの交換要員が誰だったのかとか、詳しいことはわからないけど、“その申し出を広岡さんが断ったんだ”と、親しい新聞記者から聞きました」

 当時のジャイアンツは、V9時代の二番手捕手だった吉田孝司がレギュラーを務めていたが、すでに30代を迎えており、80年代にレギュラーとなる山倉和博は入団直後で、仮に移籍していればレギュラーの可能性も高かったはずだ。しかし、八重樫はそれを望まなかった。

「事前に知っていても、“巨人に行って野球をやりたい”とは思わなかったと思いますね。広岡さんが断ったのは“大矢の後は八重樫だ”という思いがあったからだろうし、森さんも、僕に期待してくれていることは感じていましたから」

 ヤクルトが正式に球団経営に参画した69年のドラフト1位でプロ入りした八重樫には、「自分はヤクルト1期生なのだ」という自負がある。だからこそ、「ヤクルト以外のユニフォームを着ることは考えられなかった」と断言したのだ。

<八重樫幸雄編第4回/連載第20回に続く>

#20に続く
「広岡監督は、もういいや」日本一の直後に不満が噴出…なぜ広岡達朗の“最強ヤクルト”は崩壊したのか? 八重樫幸雄に聞く「広岡野球の本質」

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