「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
「広岡監督は、もういいや」日本一の直後に不満が噴出…なぜ広岡達朗の“最強ヤクルト”は崩壊したのか? 八重樫幸雄に聞く「広岡野球の本質」
posted2024/01/19 11:04
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
BUNGEISHUNJU
悲願の日本一達成翌年にチームは瓦解
開幕以来スタメンマスクを被り続けたものの、1978年4月28日の試合で負傷離脱後、5カ月間もの戦線離脱を余儀なくされた。八重樫幸雄が再び一軍に呼ばれるのは、リーグ優勝を目前に控えた頃だった。
「退院後、ファームの試合に出たり、一軍で代打に出たりしたけど、この時点ではまだやせ細った足を鍛え直すことはできなかったですね。マジック2ぐらいのときに胴上げのためにベンチに入りました。この頃になると、ベンチのムードは優勝に向かって一丸となっていました。特に印象深かったのは、それまでは監督に対する不満しか口にしていなかったベテラン選手たちが、“このチャンスを逃すな、絶対に優勝しよう!”と言い始めていたことです。ベンチ内はすごくいいムードでしたから」
当時、すでにベテランの域に達していた大杉勝男、伊勢孝夫が前のめりになって試合に臨んでいる姿を見て、「これが優勝するチームなんだな」と、八重樫は実感していたという。そして、10月4日、球団創設29年目にして、ヤクルトは初めてのリーグ優勝を実現。広岡達朗監督が神宮球場の宙を舞った。さらに、続く日本シリーズでも「ヤクルト圧倒的不利」の下馬評を覆して、王者・阪急ブレーブスを4勝3敗で撃破。悲願の日本一に輝いた。
「チームの日本一はもちろん嬉しいんですけど、僕自身はまだリハビリ中だったので、まったく戦力になることはできなかった。だからこそ、“よし、来年こそ”という思いは強かったんです。でも、その翌日にはもうすでに、チームの中に“広岡監督は、もういいや”みたいな雰囲気が蔓延したんだよね……」