「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
「あんな男が、ジャイアンツのユニフォームを着ていていいのか?」広岡達朗が大乱闘に激怒…八重樫幸雄が見た“笑わない監督”のヤクルト時代
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byKYODO
posted2024/01/19 11:03
“鉄仮面”を貫いたヤクルト監督時代の広岡達朗。「巨人の広岡として死にたい」と語るなど、古巣への思いは並々ならぬものがあった
「森さんは、いつも“ジャイアンツなんか大したことがない”と言っていたけど、最初の頃は半信半疑で聞いているわけです。でも、何度も、何度もそれを繰り返す。“V9の頃と今のジャイアンツは全然違うんだ”と繰り返すわけです。ヤクルトはメンバーを固定して戦っているけれど、ジャイアンツはメンバーを固定できていない。そうした点を、選手たちに常に指摘していましたから」
それはまさに、広岡が森に期待した重要な役割だった。この言葉を受けて、八重樫も次第にその気になってくる。
「王さんも晩年を迎えていたし、チーム自体の打撃力が落ちてきているのに、ジャイアンツは極端に送りバントが少なかった。長嶋さんの性格的なこともあるのかもしれないけど、僕たちは三原脩監督の頃から、コツコツ1点を取る野球を学んできました。巨人の欠点も見えてきたし、自分たちの野球にも自信が芽生えてきたし、ジャイアンツコンプレックスは少しずつなくなっていったと思いますね」
八重樫の言葉を裏づける象徴的な一戦がある。それが、7月10日、神宮球場で行われた対ジャイアンツ16回戦である――。
「ジャイアンツコンプレックス」を払拭した試合
78年7月10日、この日、神宮球場ではヤクルトスワローズ対ジャイアンツ16回戦が行われた。八重樫は神奈川・鶴見の病院に入院していたが、指揮官の広岡達朗も、病室で戦況を見守っていた八重樫も、数年来の目標である「ジャイアンツコンプレックス払拭」を実感することとなる。
前夜はエース・松岡弘が先発し、倉田誠、安田猛、井原慎一朗、梶間健一、そして三浦政基を投入して、6対6の痛み分けを演じていた。監督就任早々に「投手ローテーションを確立する」と宣言していた広岡ではあったが、「打倒巨人」の執念が垣間見える必死の継投だった。
この時点でヤクルトは64試合を戦い、35勝21敗8分で首位をキープしていたが、2位・大洋ホエールズとは2ゲーム差、3位・ジャイアンツも2.5ゲーム差まで迫りつつあった。プロ6年目の鈴木康二朗が先発マウンドに上がる。そして、初回に事件が起こった。いきなり1点を失った鈴木は、ようやくツーアウトまで持ち込んだが、打席に入った五番・シピンへの初球。鈴木が投じたシュートが脇腹に直撃する。