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「竹澤はもうちょっと走れると思っていた」箱根駅伝での挫折、OBの厳しい声に涙…竹澤健介が“低迷にあえぐ早稲田大”の救世主になるまで
text by
和田悟志Satoshi Wada
photograph byAFLO SPORT
posted2024/01/08 11:00
箱根駅伝で3年連続区間賞を獲得するなど、早稲田大の絶対的エースとして活躍した竹澤健介。ロングインタビューで母校への熱い思いを語った
そんな時に竹澤の心を鷲掴みにしたのが、燕脂のエース、渡辺康幸の走りだった。第71回大会(1995年)、2区で渡辺が区間記録を打ち立てた際の「前人未到の区間新記録!」という実況は、今も竹澤の耳に残っている。
「純粋に“かっこいいな”と思いました。この時からずっと“早稲田で箱根駅伝を走りたい”っていう思いがありました」
“ダブル佐藤”の陰で…憧れの早稲田に猛アピール
子どもの頃から水泳をやっていたが、足もそこそこ速く、中学では陸上競技部に入った。
「中学に入って陸上を始めると、箱根駅伝の選手のすごさが分かるんですよ。でも、当時から“いつかはそこに辿りつく”みたいな思いはずっと持っていました。年齢を重ねるごとにタイムが伸びていって、だんだんとそこに近づいていく感覚が自分の中にありました。それがすごく楽しかったです」
めきめきと力を付け、中学3年の全国大会では1500m(5位)、3000m(4位)と2種目で入賞を果たす。高校は兵庫の名門・報徳学園高に進学した。成功体験を重ね、思い描いていた夢は着実に近づいていた。
しかし、高校時代、同じ学年には“ダブル佐藤”と呼ばれた2人のスーパースターがいた。長野・佐久長聖高の佐藤悠基と宮城・仙台育英高の佐藤秀和だ。高校生の枠を超えてハイレベルな戦いを繰り広げる2人に対して、竹澤は「その陰に隠れる存在だった」と語る。
「早稲田には見向きもされていなかったので、高校の先生を通じて『どうしても行きたいんです』とお願いしました」
いわば逆指名。しかし、早稲田の推薦枠は少なく、すぐに良い返事をもらえたわけではなかった。
ちょうどその頃、幼い時に憧れた渡辺が現役を引退し、母校・早稲田のコーチとなり指導者の道を歩み始めたばかりだった。これも巡り合わせというものだろう。竹澤が高校3年になった年に渡辺は早稲田の駅伝監督に就任した。4月に渡辺に会う機会を得た際に、竹澤は思いの丈をぶつけたという。
「もちろんあの2人(佐藤悠基、佐藤秀和)が本命だったと思います。僕が渡辺さんの立場でもそう考えたと思います。僕としては、思いは伝えた。あとは、僕自身の走りと成績を見て判断していただきたいという気持ちでした」