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テレビ解説も思わず「ちょっと脆いですね」…全国高校駅伝20年前の《大波乱の内幕》初出場から“6年連続入賞”駅伝「超名門」佐久長聖高“失敗の本質”
text by
山崎ダイDai Yamazaki
photograph byJIJI PRESS
posted2023/12/24 06:08
圧倒的な優勝候補だった仙台育英とともに1区で留学生を追って飛び出した佐藤悠基。区間中盤での失速は誰もが予想していなかった
「上野先輩は『俺がこの襷を絶対に前に持って行くんだ』っていう気迫がポジション取りに滲み出ていた。『もし遅れても、俺が絶対取り戻す』って。いま思えば、自分にはそういう確たる自信がなかった」
もちろん、レース展開をさまざまに想定できていれば、そこまで焦る必要はなかった。客観的に見れば3kmという短距離区間において、当時の都甲の実力は決して区間下位に甘んじるレベルのものではなかったからだ。
だが、絶対エースへの強すぎる“信頼”は都甲から予想外の展開に対する対応力を奪い取っていた。
◆◆◆
「ずいぶん襷渡しがごちゃついてるなぁ」
5区を走る予定だった1年生の高野寛基が自校の戦況を最初に把握したのは、2区から3区への襷渡しが目に入ってきた瞬間だった。
全国高校駅伝は折り返しコースのため、5区は概ね2区の逆走コースになる。そのため、ウォーミングアップを行っている最中に第2中継所の様子がうっすら目に入ってきたのだ。
「1区は当然、先頭付近で行くはずだと思っていました。だから2区が終わった時点で襷渡しが集団になっているのを見て『おやっ?』と」
高野の懸念の通り、2区が終わった時点でチームは11位まで順位を下げていた。3区・松本昂大(2年)と4区・永田慎介(1年)は下級生なりに粘りの走りを見せたものの、高野に襷が繋がれた時点では入賞圏内まで25秒差の12位という順位だった。
先頭の仙台育英はすでに後続に3分近い差をつけて独走態勢に入っており、レースの大勢は決していた。一方で入賞という観点から見れば、6位から12位まで30秒差の中に7チームがひしめく大混戦になっていた。
この時点でまだ高野には「入賞を逃すかもしれない」という危機感は希薄だったという。
「そこまでのレース展開がわかっていなかったこともありますが、とにかく『自分の走りができればなんとかなるだろう』という気持ちだったことは覚えています。入賞を逃すことになるかもしれないという実感やプレッシャーは、全然なくて」
ルーキーの危機感が希薄だった理由は…?
高野が安穏としていたのには理由があった。
「実はこの年、県大会のタイムが佐久長聖の歴史上、一番遅かったんです。それで当時はめちゃくちゃ空気が重くて、監督にもすごく怒られて。その時はチーム全体でかなり危機感があったんです」
ところがその2週間後の北信越駅伝で、どういうわけか「それなりのタイムで優勝できてしまった」のだ。
「それがあって『これなら本番もなんとかなりそうだ』という空気になってしまったんです」
結果的に、特に1年生で経験の少なかった高野たちの代にとっては、どこか気の緩みに繋がっていった。