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藤井聡太14歳に敗れた羽生善治三冠「すごい人が現れた」…伝説の企画『炎の七番勝負』仕掛け人・野月浩貴八段が明かす舞台裏「もし全敗したら…」
text by
いしかわごうGo Ishikawa
photograph byJIJI PRESS
posted2023/12/07 11:00
史上最年少・14歳2カ月でのプロ入り(写真)後に藤井聡太四段が挑んだ『炎の七番勝負』。同企画をプロデュースした野月浩貴八段に話を聞いた
同時に、「若者の成長譚」というストーリーも多くの視聴者に響くのではないか、という企画案が浮上した。そこに合致したのが、史上最年少棋士となった中学生・藤井聡太だったというわけである。
ネーミングの由来はプロレスの「十番勝負」
こうして動き出した『藤井聡太四段 炎の七番勝負』だが、まず目を引くのが企画名だ。意図せずに「藤井フィーバー」の発火点となったわけだが、なぜ「炎」で「七番勝負」だったのか。どこか懐かしさの漂うこのネーミングについて尋ねると、野月から思わぬ一手が飛んできた。
「子供の頃、プロレスを見るのが好きだったんです。昔ってジャンボ鶴田とかタイガーマスク(二代目)とか、よく有望な若手が『試練の十番勝負』とかをやってましたよね。ちょっとそのアイデアを拝借しようと思って(笑)」
思わず笑ってしまった。まさかそこからヒントを得ていたとは……。例えば「ジャンボ鶴田・試練の十番勝負」は、1976年から1979年にかけて全日本プロレスで行われた番勝負である。なるほど、若手の登竜門にはもってこいの企画名かもしれない。
「あとは何番勝負にするのか。十番じゃなくて、将棋界ならタイトル戦と同じく七番でしょうと。まだ誰が受けてくれるのかはわからない状態でしたが、10人ほどリストアップして声をかけていくことになりました」
こだわったのは、対戦する棋士の顔ぶれだった。エキシビションで新人に花を持たせるのではなく、本気で“試練”だと思えるような勝負にしなくてはならないからだ。強い相手でなくては意味がない。そこで20代、30代、40代と、各世代のトップクラスと言われる実力者に対戦を依頼することにした。
実際に彼らがオファーを受けてくれるかどうかは未知数だったが、おおむね好感触を得ることができ、話はスムーズに進んだ。当時三冠を保持していた羽生善治も、若手時代に雑誌の企画でタイトルホルダーとの対局をした経験から快く協力してくれたという。棋士の本能として、みな盤を挟んで話題の中学生棋士の実力を体感してみたかったのかもしれない。