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「ヒデトシ・ナカタは素晴らしいパサーだった」W杯優勝の名MFジーニョが語る“日本と横浜フリューゲルス愛”「もしJクラブで働くチャンスがあれば…」
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byHiroaki Sawada
posted2023/11/12 17:00
ブラジル代表の名手であり、横浜フリューゲルスでも輝いたジーニョ。いまは何している?
「あの予選は、最初の4試合が全部アウェーで次の4試合が全部ホームという不思議な日程だった。国内メディアと国民から厳しい批判を受けたが、そのことで逆にチームがまとまった(注:ウルグアイを2-0で下して、結果的にはグループ首位でW杯出場権を手にした)」
――1994年W杯では「やや守備的なスタイルでセレソンの伝統にそぐわない」という批判もありましたが、トップ下のあなたも攻撃のみならず守備でも貢献。堅守とエース・ロマーリオの決定力を最大限に生かした戦い方で栄光を掴み取ります。
「(ルイス・フェリペ)スコラーリ監督から『中盤の守備でも体を張ってくれ』と指示され、それを忠実に実行した。子供の頃からの夢だったW杯優勝を成し遂げて、最高の幸せを味わった」
もしJクラブで働くチャンスが訪れたら?
――その翌年、横浜フリューゲルスへ移籍し、1997年8月に帰国します。古巣パルメイラス、南部の名門グレミオなどで活躍。2005年に生まれ故郷の小クラブ、ノーヴォ・イグアスーでプレーした後、マイアミFC(注:MLSの下部リーグ)で最初は選手、後にプレーイング・マネジャーを務めます。
「チームはセミプロで、アメリカ人選手の多くは別の仕事を持っていた。強豪国のプロチームの環境とは大きく異なっていたが、良い人生経験を積むことができた」
――引退後は、フラメンゴ、サントスで強化部長を務めた後、2015年から2016年にかけてヴァスコダガマでジョルジーニョ監督(元ブラジル代表右SBで、1995年から98年まで鹿島アントラーズで活躍)をコーチとして補佐しました。その後は、ブラジルのテレビ局ESPNの解説者を務めています。
「ジョルジーニョは僕より3歳年上で、フラメンゴとセレソンで一緒にプレーした。フットボールに関する考え方が似ていて、人間的にもウマが合う。今、僕はメディアで仕事をしているけれど、彼とは『いつかまた一緒に仕事をしよう』と言い合っている。もし彼と僕にJリーグのクラブで働くチャンスが訪れたら? もちろん、前向きに検討するよ」
深い洞察力と率直な物言いで、ブラジルの人気解説者の1人となっている。温厚そうな外見とは裏腹に、内に強い負けん気と激しい闘志を秘める。
「ジーニョ・テトラ」は、今後も様々な立場からブラジルと世界のフットボールに関わっていくはずだ。