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「酒、タバコが習慣化した選手も」ジーコ37歳がボウ然「アマレベル」の鹿島アントラーズが強くなるまで…ブラジルで本人に聞く
posted2023/09/23 17:00
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph by
Hayato Fujii
日本ではスタジアム前やショッピングセンターに銅像が建ち、「神様」と呼ばれることもある。しかし、国民の大半がカトリック教徒である母国では「神様」はイエス・キリストだけ。人間世界で最高位の「王様」は、ペレだ。
それでも、この男の生まれ故郷にして長年活躍したフラメンゴが本拠を置くリオでは、彼の人気、彼への評価は絶対的だ。フラメンゴのファンはもちろん、ライバルクラブのファンからも深く敬愛される。
今年3月に古希を迎えたが、血色が良く、非常に元気そう。大柄ではないが、体に厚みがある(ただし、選手時代より体重が増えているのは事実だが)。長年、ボールを蹴り続けてきた両脚は、象を連想させるほど太くて逞しい。
彼がリオ南部で運営するCFZ(ジーコ・フットボール・センター(かつては同名のプロクラブを保有していたが、現在は子供向けのフットボール・スクール)で、にこやかな笑みを浮かべて出迎えてくれた。
3カ月ほどプレーして、無理なら…との条件だった
――1970年代から80年代にかけて、ブラジル最大の人気クラブとセレソン(ブラジル代表)のスーパースターとなり、1989年、36歳で惜しまれながら引退。その後、スポーツ大臣を務めていたが、1991年、まだプロリーグがなかった日本で現役へ復帰して世界中のファンを驚かせました。日本へ渡った経緯を、改めて教えてください。
「1985年と86年に左膝を痛めて手術を繰り返したが、どうしても治らない。痛みが消えなかった。
1988年5月、フラメンゴの一員としてキリンカップに出場するため来日した際(注:予選リーグで日本代表を3−1で下し、決勝でレバークーゼンを倒して優勝)、日本サッカーリーグ(JSL)で2部に降格したばかりのトヨタからオファーをもらった。ところが、次のシーズンに1部復帰を逃したため、話が立ち消えとなった。
ブラジルで引退した後の1991年初め、今度は住友金属(当時JSL2部)からオファーを受けた。『1993年にプロリーグが開幕し、我々も参加する。選手としてプレーするだけでなく、これからクラブが進歩、発展を遂げるためにアドバイスしてもらいたい』、『鹿島の町をフットボールで盛り上げてもらいたい』と言われ、興味を覚えた。
ただ、現役時代に何度も手術し、最終的に引退に追い込まれた左膝の状態が気がかりだった。3カ月ほどプレーしてみて、無理だと判断した場合はアドバイザーのような形でクラブに貢献することも考える、という了解で契約を結んだ」
当時のチームはアスリートが食べるべきものでは…
――当時、日本のフットボールについての知識は?