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「ヒデトシ・ナカタは素晴らしいパサーだった」W杯優勝の名MFジーニョが語る“日本と横浜フリューゲルス愛”「もしJクラブで働くチャンスがあれば…」
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byHiroaki Sawada
posted2023/11/12 17:00
ブラジル代表の名手であり、横浜フリューゲルスでも輝いたジーニョ。いまは何している?
「2人きょうだいで、2歳上の姉がいる。父親はトラックの運転手で、いつも忙しく、フットボールにはあまり興味がなかった。でも、二人の叔父がフットボール好きで、彼らにマラカナン・スタジアムへ連れて行ってもらった。一人がボタフォゴ、もう一人がフルミネンセ(注:いずれもリオの4大クラブ)で、どちらかの試合ばかりだった」
――ボールを蹴り始めたのは?
「5歳くらいからストリートや広場で友達とボールを蹴り始め、10歳から地元のアマチュアチームでプレーした」
フラメンゴ時代のジーコに憧れた
――当時のポジション、憧れの選手は?
「最初は左ウイングで、やがて中盤でもプレーするようになった。最初に憧れたのは、当時フルミネンセでプレーしていたMFリベリーノ(注:1970年W杯優勝メンバー)」
――この頃からプロ選手を目指していたのですか?
「いや、そういうわけじゃなかった。好きだったから、毎日ボールを蹴っていただけ」
――フラメンゴのアカデミーに入団したきっかけは?
「僕が所属していたアマチュアチームが、フラメンゴのU-11と練習試合をした。そのときのプレーがフラメンゴ関係者の目に留まり、入団テストを受けるよう勧められた。そして、合格した。以来、フラメンゴが僕の『心のクラブ』となり、ジーコに憧れた」
――フラメンゴは、1981年にクラブ南米王者、世界王者となり、黄金時代を迎えていました。
「クラブの練習場などでトップチームの選手を見て、そのうまさに度肝を抜かれた。そして、『自分も彼らのようなプロ選手になりたい』と思うようになった」
――トップチームからデビューしたのは、1986年、18歳のときですね。
「1986年3月9日。リオ州選手権の試合で、後半途中からピッチに立った。滅茶苦茶に緊張したけれど、まずまずのプレーができたと思う。しばらくは控えだったが、1987年からレギュラーになった」
W杯落選から4年後の優勝は「最高の幸せ」
――やがてフラメンゴの主力選手となり、1989年3月、セレソン(ブラジル代表)に初招集されます。
「ちょうど休暇中で、父親の生まれ故郷であるブラジル北東部の町に滞在していた。テレビニュースで自分が招集されたのを知り、天にも昇る心地だった。両親は大喜びで、町中の人が僕を祝福してくれた」
――ただし、1990年W杯には招集されませんでした。
「内心、招集を期待していたから、残念だった。でも、まだ若かった(注:23歳)から、次の(1994年)大会には招集されて、なおかつ主力としてプレーしたいと考えた」
――1994年W杯予選であなたはレギュラーとして出場しましたが、第2節のアウェーのボリビア戦で、標高3600mを超える高地ラパスでの試合で敗れ、最初の4試合で1勝2分1敗と大苦戦。以後は3連勝しますが、ウルグアイとの最終節で敗れたらセレソン史上初の予選敗退という窮地に追い込まれました。