熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
「ヒデトシ・ナカタは素晴らしいパサーだった」W杯優勝の名MFジーニョが語る“日本と横浜フリューゲルス愛”「もしJクラブで働くチャンスがあれば…」
posted2023/11/12 17:00
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph by
Hiroaki Sawada
精緻な技術、的確な状況判断、優れた戦術眼、高い決定力を備え、守備でもチームに貢献する玄人好みの攻撃的MFだった。
1994年のワールドカップ(W杯)アメリカ大会で全7試合に先発し、FWロマーリオ、MFドゥンガ、右SBジョルジーニョらと共に優勝を達成(以来、母国では「ジーニョ・テトラ=ブラジルの通算4度目の優勝に貢献したジーニョ」と呼ばれる)。当時所属していたブラジルの名門パルメイラスでも、1993年から国内リーグ連覇を遂げた。
この代表では世界の、クラブではフットボール王国の頂点を極めたばかりの男が、Jリーグ創設3年目の1995年、Jリーグへ舞い降りた。パルメイラスでチームメイトだったMFセザール・サンパイオ、CFエバイールと共に、横浜フリューゲルスへ移籍。「世界一の妙技」を発揮してチームを牽引した。
僕も妻も、横浜の町がとても気に入った
――入団当時のフリューゲルスの練習環境、チームとJリーグのレベルをどう思いましたか?
「クラブの練習環境はまだ十分ではなかったが、年を追うごとに整備されていった。ブラジル王者だったパルメイラスと比べると、当然、チーム力も及ばなかった。しかし、有望な若手選手が多く、我々ブラジル人トリオがチームに溶け込んだら間違いなく強くなると思った。
Jリーグも、高い能力を持つ外国人選手と伸び盛りの日本人選手が融合し、年々、レベルが上がっていった」
――家族共々、日本での生活に戸惑いはなかったのでしょうか?
「当時、長女が生まれたばかりだったが、フリューゲルス関係者が親身になって世話を焼いてくれたので、生活面で困ることはほとんどなかった。僕も妻も、横浜の町がとても気に入った。妻は、今でも当時の生活を懐かしがっている」
日本代表とは点差ほどの力の差はなかった
――フリューゲルス在籍中の1995年、あなたは日本代表と2度対戦しています。最初はリバプールで行なわれたウンブロ・カップで、あなたの2得点などでセレソンが3-0で勝利。2度目が8月に東京国立競技場(旧)で行なわれた強化試合で、やはりセレソンが5-1と圧勝しました。