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広島一筋20年「移籍を考えたことは一度もない」柏木、槙野、西川…盟友たちを見送ってきた37歳・青山敏弘の本音〈10番モリシへの後悔も〉
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byNaoki Morita/AFLO SPORT
posted2023/10/25 11:05
2022年ルヴァンカップを制し、サポーターと喜びを分かち合うサンフレッチェ広島MF青山敏弘(37歳)。昨季、クラブJ1最多出場記録を更新した
――振り返れば、柏木陽介選手あたりからですかね。槙野智章さん、西川周作選手、森脇良太選手、髙萩洋次郎選手と、同世代の盟友たちが次々と旅立っていき、青山選手はずっと見送る立場でした。
青山 でも、抜ければ抜けるほど強くなっていったというか。ひとり、ふたりいなくなるだけでチームのすべてが変わるわけじゃなくて、むしろ結束が強まって、パワーアップしていった。それに(佐藤)寿人さん、カズさん(森﨑和幸)、(森﨑)浩司さんと、抜けてはいけない軸となる選手は残っていましたからね。今回だって、モリシはいなくなったけど、素晴らしい選手がふたり(マルコス・ジュニオール、加藤陸次樹)来てくれて、競争力は高まっている。歴史は繰り返されるっていう言い方はおかしいかもしれないけれど、また強くなるチャンスだなって思いますね。
「移籍という選択肢は一度もなかった」
――青山選手自身も、他クラブからオファーが届いたことがあると思いますが、サンフレッチェから出ようと考えたことは1度もないんですか? 留まってきた最大の要因は?
青山 まずね、僕のところにオファーが来たことは1度もない。
――そうなんですか。
青山 そもそも「移籍するつもりはない」ということを代理人に伝えてあるので。だから、もしかすると、代理人のところで止めていたのかもしれないし、青山は移籍しないだろうっていうことで、そもそも他クラブが関心を示さなかったのかもしれないし。だから、移籍という選択肢は自分の中で一度もなかった。それはなんでか……楽しかったんですよね。サンフレでサッカーをすることが。この吉田(安芸高田市サッカー公園)の環境が。06年の夏にミシャさん(ミハイロ・ペトロヴィッチ)が来て、そのサッカーにチャレンジするのが楽しかった。そのあと、森保(一)さんが監督になって、タイトル獲得にチャレンジするのも楽しかった。自分が成長するためのすべてがここに詰まっていた。それが一番かな。ここじゃないと成長できないと思っていたから。ここじゃなかったら、日本代表になれなかっただろうな、優勝もできてなかったんだろうなって。意地とかじゃなくて、それが純粋な気持ちかな。
――先日、川村拓夢選手にインタビューをする機会があったんですよ。そうしたら、川村選手がスキッベ監督のことを「お父さんのような存在」だと言っていて。それで昔、青山選手も「ミシャさんは自分にとってパパだ」と言っていたのを思い出して。
青山 フフフ。よく怒ってもらいましたからね。でも、すごく愛情を感じた。ミシャさんが来る前のプロ1年目、2年目は土俵にすら上がれない苦しい時期で。3年目、やっと自分のことを見てくれる人に出会って、チャレンジさせてもらって、ちょっとずつ成長させてもらって。ミシャさんが僕の能力を引き出してくれたのは間違いないし、プロ3年目でそういう方に出会えて僕は恵まれていた。今の拓夢や満田(誠)にとってスキッベさんは、まさにそういう存在なんじゃないかな。
――若いときに父親と思えるような指導者と出会えることが、どれだけ幸せか、青山選手は身をもって知っているということですね。
青山 たしかに、今の状況は17年前のあの頃に似てるなって思いますね。そうか、拓夢がそう言ってたなら、あいつはまだまだ成長しますよ(笑)。俺ももう1回怒られてみたいな、スキッベさんに。でも、怒ってもらうレベルにも達してないっていう……。まさにプロ1、2年目の頃と同じ状況だよね。
――この先の自分がどうなっていくのか。
青山 うん、まさに今、試されているところですね。
(続く)
◇後編では、かつての恩師である森保一監督やすでに現役を退いた盟友たちへの思いを明かしている。