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「7500万だったかな。倍以上だった」柱谷哲二が明かすJ開幕前の“日産→読売”禁断の移籍、和司の「行くな」とラモスの「来い」

posted2022/01/31 11:02

 
「7500万だったかな。倍以上だった」柱谷哲二が明かすJ開幕前の“日産→読売”禁断の移籍、和司の「行くな」とラモスの「来い」<Number Web> photograph by Shinichi Yamada/AFLO

天皇杯を制した日産自動車時代の柱谷哲二(右)と松永成立(1992年1月1月)

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飯尾篤史

飯尾篤史Atsushi Iio

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Shinichi Yamada/AFLO

サッカー日本代表のキャプテンマークには、この男の魂が宿っているのかもしれない。闘将・柱谷哲二、57歳だ。「ドーハの悲劇」を経験し、W杯アジア予選の厳しさを誰よりも理解する男は、かつて同部屋だった森保一にどんなエールを送るのか。憧れた兄の存在、日産から読売へ“禁断の移籍”、Jリーグ開幕戦の秘話、そして現在指導する花巻東高校への思いを熱く熱く語り始めた。全3回の#1(#2#3へ)

 本田圭佑は3歳上の兄・弘幸となんでも競い合い、コテンパンにやられて泣きながら、勝負への熱と負けず嫌いの虫を育んでいった。

 遠藤保仁も6歳上の兄・拓哉と4歳上の兄・彰弘に混じってボールを蹴っていた。とりわけテクニシャンの長兄が憧れの存在で、どうすれば自分もうまくなれるか観察し続けた。

 兄弟Jリーガー、「○○兄弟」の草分け的な存在である“柱谷兄弟”の弟、柱谷哲二もやはり兄・幸一の存在なくして自身のサッカー人生は語れないという。

「4歳違うからケンカにならなくて。布団を敷かされたり、プロレスの技をかけられたりして、しょっちゅう泣かされたよ」

“ドーハの悲劇”で知られるオフトジャパンのキャプテンで、「闘将」の異名をとった現役時代からは、想像しがたい姿である。

「だから、粘り強くなったのかもしれないね(笑)。サッカーに関しては兄貴の背中を追いかけていた。僕が中3のとき、兄貴がワールドユース(1979年日本大会)に出たの。そうしたら『柱谷の弟』って言われるようになって、ちょっと嫌だった。でも、兄貴が日の丸を付けられるなら、俺も絶対に付けられるはずだって」

 花園サッカースポーツ少年団に始まり、京都市立双ヶ丘中サッカー部、京都商業高サッカー部、国士舘大サッカー部と、兄・幸一と同じ経歴をたどった。

「僕は高校の先輩で、兄貴よりふたつ上の川勝良一さん(元ヴィッセル神戸監督など)が好きだったから、法政に行きたかった。でも、国士舘が特待生で取ってくれるというから、家庭の事情もあって、兄貴と同じ道に進んだ」

 所属先のみならず、ポジションまでもが兄と同じFWだった。だが、大学4年時にセンターハーフ(ボランチ)にコンバートされ、このポジションに魅せられていく。

「B代表に選ばれて、アルゼンチンやブラジルに遠征をしたんだよね。筑波の井原(正巳)がセンターバック、ゴンちゃん(中山雅史)がサイドバックで、僕がセンターハーフ。B代表とはいえ日の丸を付けているから要求が高くて、このポジションも面白いなって。ボールの奪い方とかポジショニングを教えてもらって、そこからはセンターハーフ」

 大学卒業を控えた柱谷の元に、日本サッカーリーグ(JSL/Jリーグ以前に存在したサッカーリーグ)1部の3チームからオファーが届く。

 兄の所属する日産自動車(現横浜F・マリノス)、読売クラブ(現東京ヴェルディ)、松下電器(現ガンバ大阪)である。

 せめて大学卒業後は、兄と異なるチームでプレーしたい――。

 そう思っていたが、ある人物のひと言が柱谷の心をグッと掴む。

【次ページ】 「お前のサッカー人生、ワシに賭けろ」

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