Jをめぐる冒険BACK NUMBER
「7500万だったかな。倍以上だった」柱谷哲二が明かすJ開幕前の“日産→読売”禁断の移籍、和司の「行くな」とラモスの「来い」
posted2022/01/31 11:02
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph by
Shinichi Yamada/AFLO
本田圭佑は3歳上の兄・弘幸となんでも競い合い、コテンパンにやられて泣きながら、勝負への熱と負けず嫌いの虫を育んでいった。
遠藤保仁も6歳上の兄・拓哉と4歳上の兄・彰弘に混じってボールを蹴っていた。とりわけテクニシャンの長兄が憧れの存在で、どうすれば自分もうまくなれるか観察し続けた。
兄弟Jリーガー、「○○兄弟」の草分け的な存在である“柱谷兄弟”の弟、柱谷哲二もやはり兄・幸一の存在なくして自身のサッカー人生は語れないという。
「4歳違うからケンカにならなくて。布団を敷かされたり、プロレスの技をかけられたりして、しょっちゅう泣かされたよ」
“ドーハの悲劇”で知られるオフトジャパンのキャプテンで、「闘将」の異名をとった現役時代からは、想像しがたい姿である。
「だから、粘り強くなったのかもしれないね(笑)。サッカーに関しては兄貴の背中を追いかけていた。僕が中3のとき、兄貴がワールドユース(1979年日本大会)に出たの。そうしたら『柱谷の弟』って言われるようになって、ちょっと嫌だった。でも、兄貴が日の丸を付けられるなら、俺も絶対に付けられるはずだって」
花園サッカースポーツ少年団に始まり、京都市立双ヶ丘中サッカー部、京都商業高サッカー部、国士舘大サッカー部と、兄・幸一と同じ経歴をたどった。
「僕は高校の先輩で、兄貴よりふたつ上の川勝良一さん(元ヴィッセル神戸監督など)が好きだったから、法政に行きたかった。でも、国士舘が特待生で取ってくれるというから、家庭の事情もあって、兄貴と同じ道に進んだ」
所属先のみならず、ポジションまでもが兄と同じFWだった。だが、大学4年時にセンターハーフ(ボランチ)にコンバートされ、このポジションに魅せられていく。
「B代表に選ばれて、アルゼンチンやブラジルに遠征をしたんだよね。筑波の井原(正巳)がセンターバック、ゴンちゃん(中山雅史)がサイドバックで、僕がセンターハーフ。B代表とはいえ日の丸を付けているから要求が高くて、このポジションも面白いなって。ボールの奪い方とかポジショニングを教えてもらって、そこからはセンターハーフ」
大学卒業を控えた柱谷の元に、日本サッカーリーグ(JSL/Jリーグ以前に存在したサッカーリーグ)1部の3チームからオファーが届く。
兄の所属する日産自動車(現横浜F・マリノス)、読売クラブ(現東京ヴェルディ)、松下電器(現ガンバ大阪)である。
せめて大学卒業後は、兄と異なるチームでプレーしたい――。
そう思っていたが、ある人物のひと言が柱谷の心をグッと掴む。