巨人軍と落合博満の3年間BACK NUMBER

巨人まさかの25失点大敗、ナベツネ激怒の事件「誠に遺憾である」…落合博満40歳が“最悪の空気”だったジャイアンツをわずか一振りで変えた夜

posted2023/10/22 11:04

 
巨人まさかの25失点大敗、ナベツネ激怒の事件「誠に遺憾である」…落合博満40歳が“最悪の空気”だったジャイアンツをわずか一振りで変えた夜<Number Web> photograph by KYODO

1994年1月31日、翌日からのキャンプに備え、巨人ナインとともに宮崎入りした落合博満40歳

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中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

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40歳での鮮烈なFA宣言、巨人へ電撃移籍した落合博満……1993年12月のことだった。
あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 本連載でライター中溝康隆氏が明らかにしていく。連載第6回(前編・後編)、とうとう巨人落合が開幕戦の夜を迎える。野村克也の挑発、メディアの批判、そしてナベツネ激怒の事件……“最悪の空気”を落合が一振りで変える。【連載第6回の後編/前編へ】

◆◆◆

<巨人で初の宮崎キャンプに参加した落合博満40歳。しかしヤクルト野村克也からの攻撃が始まり、同時にメディアからも落合に批判的な報道が増えてきた。>

原辰徳がまさかの“アキレス腱断裂”

 1994年2月27日の近鉄とのオープン戦初戦、落合は「四番一塁」で顔見せ出場。初の実戦の第一打席は阿波野秀幸に平凡な右飛に打ち取られ、3回の守りから交代した。長嶋監督のチームに対するキャンプ総括採点は「60点」という辛いもので、「今年のテーマは若手の底上げでしたが、むしろベテランに引っ張られた感じで……」と顔をしかめた。オープン戦で巨人が初勝利を挙げたのは7戦目。初戦から6連敗を喫し、前年に12球団最低だったチーム打率は、新シーズンも改善の兆しが見えず2割を切る低迷ぶりだった。

 3月になると松井が右背筋痛を再発させて離脱、落合も調整のため九州や大阪の遠征には不参加。そんな中、志願して九州シリーズに参加したのが原辰徳だった。キャンプ中、室内練習場で原が落合の練習方法でもある、ホームベースをまたいでマシンに正対して構え、ボールを体の前で払い打つ「正面打ち」を教えてほしいと頭を下げたこともあったが、落合の反応は「やめとけ。ケガするだけだ」とそっけないものだった。

 周囲からは「原はお人好しすぎる」なんて声もあがる中、35歳の元四番打者は生まれ故郷の九州で試合に出ると、3日のロッテ戦は4打数ノーヒットに終わったが、長嶋監督は「気持ちが、えぇ、出るという気持ちが大事なんですよ」と前年までとは違う背番号8の姿勢を称えた。

 落合の加入に危機感を覚え、海外自主トレで体を作り、キャンプでも例年以上のハイペースで調整。オープン戦も序盤から出場するなど原は飛ばした。いや、飛ばしすぎた。3月23日、前橋でのヤクルト戦で35歳の身体は悲鳴を上げてしまう。持病のアキレス腱痛が悪化して、MRI検査を受けたら一部が切れていた。開幕直前に左アキレス腱の部分断裂で無念の離脱である。

「巨人を棄てる。」事件は起きた

 3月12日にはジャイアンツ球場で、フリーバッティングをする落合が一緒になった松井に声を掛け、「20分も30分も打ち続けたら、体がバラバラになるぞ。あまり急に飛ばさんほうがいいぞ」とアドバイスを送った。下旬には、出遅れていた松井が一軍再合流。

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