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アントニオ猪木は「将棋の五段免状取得」「内藤國雄九段と飲み仲間」…師匠・力道山も「遺影の横に三段免状」プロレスと棋士の意外な関係
text by
田丸昇Noboru Tamaru
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2023/09/21 17:02
燃える闘魂アントニオ猪木。実は将棋好きだった
ある日、力道山が剱持に「将棋の免状を何とかいただきたいのですが……」と、頭を下げてお願いしたという。そこで将棋連盟は、力道山に三段免状を寄贈した。1962年のことだった。当時の将棋雑誌には、両者が飲食しながら談笑する写真が載っている。
私こと田丸がテレビでプロレス番組を初めて見たのは、小学校に入った1957年の頃。近所の人に連れられて飲食店に行き、30円のラーメンを食べながら店のテレビに見入った。自宅にテレビが置かれると、家族で力道山らを応援した。小学校の休み時間には、みんなで空手チョップの真似をしたものだ。
草創期のプロレス番組は生中継だった。日本人選手が外国人選手に反則攻撃され、レフリーのユセフ・トルコや沖識名が制止しないことにイライラしたところで、1時間の放送が終わったりした。
私の好きな選手は豊登で、両手を筋肉隆々の胸に当てて「パチーン」と音を出す仕草が面白かった。ほかにグレート東郷の「噛みつき」、大木金太郎の「頭突き」など、個性的な選手がいた。
1963年5月、力道山とザ・デストロイヤーの試合をテレビで見た。平均視聴率が64%と高かったのは、デストロイヤーの必殺技「4の字固め」が注目されたからだ。
力道山はその4の字固めを完璧に決められたが、決してギブアップはしなかった。やがて、試合続行は不可能と判断したレフリーによって引き分けとなった。放送席に下りてきた力道山が技を決められた足を見せ、「凹んだまま元に戻らない」と言ったのを覚えている。
急死した力道山の遺影の横に、三段の将棋免状が
それから半年後の1963年12月。力道山は赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、暴力団員との些細なもめ事をきっかけに刃物で刺された。当日は応急手当を受け、翌日に入院して手術を受けて成功した。しかし、数日後に腹膜炎を併発して重篤になってしまった。
国民的大ヒーローの力道山は、39歳で急死した。葬儀では遺影の横に、三段の将棋免状が飾られていたという。
その刺殺事件には後日談がある。力道山は当日、ザ・デストロイヤーをお酒に誘ったのだが断られ、赤坂に独りで行って事件が起きてしまった。訃報を受けたデストロイヤーは、「あの日はお誘いを受けるべきだった」と悲しんだという。