「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
あの広岡達朗が泣いた…厳格な指揮官に反発し、やがて心酔した若松勉が語る“ヤクルト初優勝”の情景「お客さんがグラウンドに飛び込んできて…」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph bySankei Shimbun
posted2023/07/13 17:30
1978年、ヤクルトスワローズの優勝パレードでオープンカーに乗る若松勉(左)と広岡達朗監督。いつしか両者は強固な信頼関係で結ばれていた
結局、上田による猛抗議も実らず、判定は覆らなかった。
「この瞬間かな、“日本一になれるぞ!”と感じることができたのは。それまでは勝てるという保証はなかったし、その自信もなかったですから。それにしても、松岡は立派だったと思います。あれだけ長い中断があったのに、試合再開後も淡々と投げ続けましたからね。結局、このシリーズでは2勝2セーブですからね。すべての勝利に絡んでいるわけだから、本当に松岡は立派でしたよ」
「決して選手を褒めない監督」からの賛辞
このシリーズでは若松自身も全7戦に出場し、27打数9安打3打点、打率.333で優秀選手として表彰されているが、本人にはその記憶はあまりないという。このシーズンの若松について、広岡は当時このように語っている。
《ヒルトンもコンスタントによく打ったが、若松は要所でよく打った。必ず価値ある一打を打ってくれたよね。でも、今年のウチの優勝はヒーローがつぎつぎと出てきたことに最大の特徴があったよ。優勝はみんなのものだ》(『ヤクルト初栄冠』/日刊スポーツ出版社)
決して選手を褒めることのなかった広岡の口から、このとき「必ず価値ある一打を打ってくれた」と若松の名前が飛び出した。監督就任3年目で、ついに結実のときを迎えた。1978年の若松は、2月に肉離れ、4月は背筋、腰痛、右手首腱鞘炎。6月は左足首捻挫と故障が続きながらもチームを牽引したことでMVPに表彰され、名実ともにリーグを代表する選手となった。
これから、新たな黄金時代を築いていくべく、さらなる躍進を続けていくだけだった。輝かしい未来が始まろうとしていた。しかし、翌79年、その目論見はあっけなく瓦解することになるのである――。
<#4に続く>