「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
ヤクルト監督・若松勉に広岡達朗から突然の電話「監督は大変だよな」…“どれだけ嫌われても決して妥協しない人”広岡の知られざる素顔
posted2023/07/13 17:31
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
JIJI PRESS/BUNGEISHUNJU
1979年、シーズン途中での解任劇
就任3年目の1978年、広岡達朗率いるヤクルトスワローズは球団史上初となる日本一となった。しかし、その栄光はあっけなく瓦解する。主砲であるチャーリー・マニエルを近鉄バファローズにトレードし、「守備力重視でⅤ2を目指す」という目論見で、広岡自身の推薦でジョン・スコットを獲得したものの、若松勉、大杉勝男を中心とした強力打線は沈黙。前年までの破壊力は鳴りを潜めてしまった。若松が振り返る。
「マニエルが近鉄に行って、代わりに神部年男さんがヤクルトに来ました。神部さんもいいピッチャーでしたけど、やっぱりマニエルの抜けた穴は大きかったですね。マニエルとは家族ぐるみのつき合いもしていたので、個人的にもとても残念でした。確かにスコットの守備はすごかったけど、やっぱりマニエルの穴は埋められませんよね」
開幕から引き分けを挟んで8連敗を喫し、なかなか波に乗り切れない79年シーズン。8月17日には無断で信頼するコーチの更迭を決めた球団幹部に抗議するべく、広岡は「声明文」を発表。シーズン途中での退団が決まった。当時、チームリーダーだった若松勉は、この非常事態に対して「本当に驚いた」と言う。
「広岡さんがいればチームは強くなる。実際に78年には日本一になったし、翌年もそう思っていました。でも、僕らが結果を残せなかったばかりに広岡さんがチームを去ることになりました。ものすごく責任を感じました。心から、“辞めないでほしい”と思っていました……」
一連の出来事を受けて、このとき若松は広岡に電話をしている。
「居ても立っても居られず、受話器を握りしめました。このとき、広岡さんは淡々と話していました。“こういう理由でチームを去ることにした。自分が連れてきたコーチだから、私に責任がある”と言っていました。僕は“辞めないでほしい”と訴えました。でも、決意は固かった……」