「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
あの広岡達朗が泣いた…厳格な指揮官に反発し、やがて心酔した若松勉が語る“ヤクルト初優勝”の情景「お客さんがグラウンドに飛び込んできて…」
posted2023/07/13 17:30
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
Sankei Shimbun
ついに「反発」から、「心酔」へ
1976年シーズン途中からヤクルト監督となった広岡達朗にとって、就任3年目となる78年は勝負の一年となった。77年には球団創設初となる2位に躍進を果たした。首位巨人には15ゲーム差をつけられたものの、62勝58敗10分、勝率は.517を記録し、「今年こそは優勝だ」との思いが、チーム全体に満ちあふれていた。
「シーズン開幕前にはもちろん、“今年こそ優勝だ”という思いはありましたけど、心のどこかでは、“本当に優勝できるのかな?”という思いもありました。僕自身、高校、社会人時代も含めて、それまでに大きな大会で優勝した経験がなかったので……」
若松勉が振り返るように、「広岡イズム」の浸透により、確かに強くなっている手応えはあったものの、心から「今年こそ優勝だ」と実感していた者は、開幕時点では少なかったのかもしれない。それでも、この年のヤクルトは粘り強く勝利を積み重ねていく。当時31歳、チームリーダーだった若松には期する思いがあった。
「この頃には、広岡さんに対する信頼感はハッキリと芽生えていました。“この人の教えに間違いはない。この人についていこう”と心から思っていたし、“絶対に監督を胴上げするんだ!”という思いがありました」
反発から始まった指揮官とチームリーダーの信頼関係は、すでに強固なものとなり、若松は広岡に心酔するようになっていた。中心選手の前向きな姿勢は、すぐにチームに伝播する。大杉勝男、チャーリー・マニエル、デーブ・ヒルトンはもちろん、広岡に徹底的に鍛えられた杉浦亨(享)、水谷新太郎、角富士夫ら売り出し中の若手たちもそれに続き、超強力打線が火を噴いた。指揮官の望んでいた相乗効果が加速度的にチーム内に広がっていく。