「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
あの広岡達朗が泣いた…厳格な指揮官に反発し、やがて心酔した若松勉が語る“ヤクルト初優勝”の情景「お客さんがグラウンドに飛び込んできて…」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph bySankei Shimbun
posted2023/07/13 17:30
1978年、ヤクルトスワローズの優勝パレードでオープンカーに乗る若松勉(左)と広岡達朗監督。いつしか両者は強固な信頼関係で結ばれていた
さらに、若松の以下のような発言も掲載されている。
《涙が出て仕方がないんだ。本当にうれしくて……。それだけしかないんだ。それでいいじゃないか……》
一方、広岡の自著『私の海軍式野球』(サンケイドラマブックス)では、このように描写されている。優勝を目前に控えて、娘から「(パパは)胴上げのときはきっと泣くから」と言われ、「そんなものかなと、そのときは思った。しかし、泣きたくなるような心境になるのだろうかと、他人事のように考えたりした」と述べた直後である。
《しかし、胴上げの瞬間、私は泣いた。
選手たちには厳しい練習や指導だったと思うが、それによく応えたその努力が、たまらなくうれしかったからだ。苦しみに耐え抜いた選手たちの心を、私は涙をもって讃える以外に方法がなかったのである》
「1時間19分の猛抗議」中、一塁側ベンチは水浸しに
日本シリーズでは、前年まで広島、巨人を相手に3年連続日本一となり、この年もリーグ4連覇を達成していた阪急ブレーブスと激突することになった。若松は言う。
「全然、勝てるとは思っていませんでした。それまで巨人がまったく歯が立たなかったし、阪急は黄金時代を迎えていましたから。1勝もできずに、“0勝4敗の可能性もあるかもしれない”とまで思っていましたね」
しかし、当人の思惑や世間の下馬評とは裏腹に、試合は第7戦までもつれ込んだ末に、ヤクルトは阪急を撃破し、悲願の日本一に輝いた。「細かい展開はほとんど覚えていない」と語る若松が鮮明に覚えているのはチームメイトたちのことだった。
「第7戦で大杉さんがレフトポール際の大飛球を放ちました。線審はホームランだと判定したけれど、阪急の上田利治監督は“絶対にファールだ”と執拗な抗議を繰り返して、試合は中断しました……」
上田監督の猛抗議は1時間19分にわたった。日本シリーズ史に残る大騒動として、今でもしばしば語られる場面だ。若松が続ける。
「……このとき、一塁側ベンチの排水管が壊れて水浸しになりました。あれは僕たちがパイプの上に乗って、レフトポールの方向を確認していたからでした。みんなの体重に耐えかねてパイプが外れてしまったんです(笑)」