ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「一団体500万。新日本と全日本は2000万円」“歴史から抹殺された”プロレスオールスター戦を覚えているか? ターザン山本が語る「寝耳に水」の顛末
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2023/04/26 11:00
1979年8月26日の『プロレス夢のオールスター戦』で復活したBI砲
当時、公称40万部という専門誌としては異例の発行部数を誇り“お化け雑誌”と呼ばれた『週プロ』が主導し、新日本、全日本の2大メジャー団体をはじめ、前田日明のリングス、高田延彦のUWFインターナショナル、船木誠勝・鈴木みのるのパンクラスというUWF系団体。さらに大仁田厚のFMWなどインディー団体や、女子プロレスなど、男女13団体が参加し、6万人(超満員=主催者発表)の大観衆を動員した『夢の懸け橋』。“ドームプロレス”全盛時代の90年代を象徴するイベントのひとつだが、今、各メディアでこの大会が振り返られることは極めて少ない。
その大きな理由のひとつとして、『夢の懸け橋』はプロレス団体主導ではなく、『週プロ』(BBM社)というマスコミ主導で行われたということが挙げられる。
1979年の『夢のオールスター戦』も東京スポーツ新聞社主催だったが、東スポは大会開催決定前から新日本、全日本、国際の3団体首脳と会談を重ね、大会はアントニオ猪木、ジャイアント馬場、吉原功という各団体の社長同席のもと記者会見にて発表。東スポは主催者ではあるが、各団体の仲介役に徹し、あくまで3団体の合同興行という『ALL TOGETHER』に近いかたちで行われた。
これに対し『夢の懸け橋』は、大会開催も対戦カードもすべてBBM社の自社媒体である『週プロ』がスクープとして発表。オールスター戦を「プロレス界全体のイベント」ではなく、自社イベントという形で独断専行したことに、東スポを始めとしたスポーツ紙やライバル誌『週刊ゴング』など、他のマスコミが総じて反発。これだけのビッグイベントながら、『週プロ』(と友好関係にあった『週刊ファイト』)以外、大会の模様がほとんど報道されなかったのだ。
『週プロ』主導の大会はいかに決まったのか?
なぜ、このようないびつなオールスター戦が開催されたのか。当時、『週プロ』のカリスマ編集長として絶大な影響力を誇っていたターザン山本は、開催までの経緯をこう語っている。
「BBM社がプロレス興行のために東京ドームを押さえたっていうのは、『週プロ』の編集長だったボクにとっても寝耳に水、まったく知らされていなかった話なんですよ。
BBM社には事業部があって、それまで会社の創立記念行事として新日本から興行を買ったりしていたことはあったんです。しかし、それらは後楽園ホールなど、比較的小規模な大会。それがみちのくプロレスの大田区体育館大会(1994年4月29日)の興行を200万円で買ったら、売上が2000万円以上あり大儲けした。これによって、社内で『プロレス興行は儲かる』という認識ができあがってしまった。大田区大会は、たまたまみちのくプロレスが一番勢いに乗っていた時期だったから当たったビギナーズラックみたいなものだったのに、BBM社の事業部はプロレス興行の素人だからそれがわからず、勘違いしたんです。
そのタイミングで、たまたま野球界と懇意にしていたBBM社の社長が、株式会社東京ドームから『4月2日が空いてますから、御社でやりませんか?』と言われて、人がいいからOKしてしまったんですよ。その話を聞いた時はビックリしたよ! なんのプランもないのにドームを押さえちゃって、『どうするんですか?』って聞いたら『新日本と全日本の対抗戦をやればいいんじゃない?」とか、事業部の責任者が簡単に言うんですよ。できっこないじゃない、そんなもん。できるなら両団体がとっくにやってますよ。無知ほど恐ろしいものはないと思ったね」