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「一団体500万。新日本と全日本は2000万円」“歴史から抹殺された”プロレスオールスター戦を覚えているか? ターザン山本が語る「寝耳に水」の顛末
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2023/04/26 11:00
1979年8月26日の『プロレス夢のオールスター戦』で復活したBI砲
「一団体500万。新日本と全日本は特別に2000万円」
山本は、東京ドーム大会がいかに無謀か、そして団体対抗戦をやることがいかに難しいかを事業部に訴えたが社命には逆らえず、結局、週プロ編集長として総合プロデューサーを引き受けることとなる。この時点ですでに大会まで約4カ月の時間しかなく、広いドームを埋めるためには、少しでも告知期間を長くしなくてはいけない。そのため他団体への根回しなど後手後手に回り、取り急ぎ大会開催だけが先に発表されることになったのだ。
限られた時間で団体対抗戦の話をまとめるのは不可能と判断した山本は、各団体が1試合ずつ提供するプロレスの品評会のようなオールスター戦にすることに決定。団体の枠を越えた夢のカードはないものの、交流戦自体が珍しかったあの時代、新日本の闘魂三銃士や全日本の四天王、さらには前田や高田、大仁田らが一堂に会する機会はこれまでなく、十分ファンの興味を惹きつけるものではあった。
「とにかく各団体に出場の了承を取り付けなきゃいけない。そのためにはお金が必要だから、各団体一律で500万円、新日本と全日本の2大メジャーだけは特別に2000万円という金額を提示したんですよ。500万といえば、後楽園ホールを超満員にした時の純利益。それが1試合でもらえるなら、どこも普通はOKしますよ」
各団体との交渉は、最大手の新日本や、ターザン山本と犬猿の仲だった前田日明のリングスがOKを出したことでスムーズに進むかと思われた。しかし、メジャーもう一方の雄、全日本のOKがなかなかでなかった。当時、山本がジャイアント馬場の個人的なブレーンを務めるなど、週プロと極めて友好的な関係を築いてた全日本の参戦がなかなか決まらないことにBBM社の事業部は慌てた。
「当時、全日本はまだ東京ドームに進出していなかったので、プライドが高い馬場さんは、『なんで雑誌社がドーム興行をやるんだ』って不快感を露わにしたんですよ。それでギリギリのタイミングまでなかなかOKが出なくて、最終的に全日本だけさらに1000万円上乗せして、3000万円でようやくOKが出たんです。週プロとの友好関係は別として、しっかりビジネスとして最大限のお金を引き出した馬場さんは策士ですよ!」
決裂を生んだ、山本の“決定的な失言”
こうして各団体との交渉はほぼお金で解決することができたが、唯一、お金で解決できない団体があった。天龍源一郎のWARが4月2日の同日、ドームの隣の後楽園ホールを押さえていたのだ。週プロは、1990年に天龍が全日本を退団しメガネスーパーが設立した新団体SWSに移籍したとき、編集長のターザン山本が先頭に立って大バッシングを展開した過去があり、SWSが分裂しWARが旗揚げしたあとも天龍と山本の個人的な冷戦状態が続いていたため、交渉は全日本以上に難航した。