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J開幕、ドーハの悲劇、浦和レッズの低迷…濃密すぎる福田正博の1993年「ジーコの言葉は嬉しかったけど…」「申し訳ない気持ちでいっぱい」
posted2023/04/24 11:01
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph by
Kazuaki Nishiyama
今から30年前の1993年は、福田正博の人生において最も濃密で、最も重く、最も急速に過ぎ去っていった1年だった。
プロサッカーリーグの誕生と、W杯予選敗退。つまり、Jリーグ開幕と、ドーハの悲劇――。
「すごく大きな1年だったね。でも、思い出せないというか、なんだかよく分からないところも多いんだ。とにかく毎日があっという間に過ぎていって、追いつけなかったんだよな、時代の流れに」
日本中がサッカーの熱に覆われたこの年、福田は信じられないような過密日程を送っている。
浦和のマンション「暮らした覚えがない」
日本選抜の一員として1月下旬に香港で開催されたカールスバーグカップに参戦すると、2月中旬には日本代表のイタリア合宿に参加してユベントス、インテル、レッチェと対戦した。
3月上旬にはハンガリー、アメリカを招いて行われたキリンカップに出場し、3月末の沖縄キャンプを経て4月にはアメリカW杯アジア1次予選の日本ラウンド、UAEラウンドを戦った。
日本代表のゲームとしては、ユベントス戦からアジア1次予選最終戦のUAE戦までの13試合すべてで福田は先発出場を果たした。
怒涛の代表活動を終えると、休む暇なく浦和レッズに合流。5月16日にガンバ大阪とのJリーグ開幕戦を迎えたあとは、中2日、中3日の間隔で試合をこなしていく。しかも当時は引き分けがなく、延長戦、PK戦まで行われていた。
「浦和で一番いいマンションと言われたところを借りたんだけど、そこで暮らした覚えがほとんどないんだ。当時は水曜と土曜に必ず試合があったから、前泊や後泊ばかりで帰宅することもままならない。それに加えて日本代表の活動もあったから」
念願のプロリーグが開幕したにもかかわらず、疲労困憊で本来のパフォーマンスを披露できない福田をさらに追い込む出来事があった。
浦和レッズの低迷、である。