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「辰吉は1億7000万円」なのに「薬師寺は2000万円」報道も…「絶対に赤字でしょ?」29年前“伝説の薬師寺vs辰吉”、試合前のモメごとがスゴかった

posted2023/04/06 11:02

 
「辰吉は1億7000万円」なのに「薬師寺は2000万円」報道も…「絶対に赤字でしょ?」29年前“伝説の薬師寺vs辰吉”、試合前のモメごとがスゴかった<Number Web> photograph by AFLO

1994年12月4日、伝説の「薬師寺保栄対辰吉丈一郎」。中部で視聴率約52%、関東でも約40%を記録した歴史的な一戦だった

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細田昌志

細田昌志Masashi Hosoda

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29年前、伝説の「薬師寺保栄対辰吉丈一郎」。中部で視聴率約52%、関東でも約40%を記録した歴史的な一戦だった。なぜあれほどまで盛り上がったのか? 当時の資料と証言をもとに検証していく。【全3回の2回目/#1#3へ】

◆◆◆

「薬師寺対辰吉」ではなく「辰吉対薬師寺」だった

 1994年8月9日に正式に決定となった「WBC世界バンタム級統一王座決定戦/王者・薬師寺保栄(松田)対暫定王者・辰吉丈一郎(大阪帝拳)」の一戦は、正規王者が薬師寺、暫定王者が辰吉である以上「薬師寺対辰吉」と呼ばれるべき試合だったが、多くの人は「辰吉対薬師寺」と口にした。理由は言うまでもない。辰吉の方が人気はもちろん、実力が上と見られていたからだ。

 1970年、倉敷市生まれの辰吉丈一郎は幼少期より父親の英才教育を受け、ボクシングの素質を開花。中学卒業と同時に大阪帝拳ジムに入門し、19戦18勝1敗(18KO)というアマ戦績を引っさげ、1989年プロデビュー。3戦すべて外国人を相手にKO勝ちを収め、初めての日本人対決となった4戦目で岡部繁(セキ)を破り日本バンタム級王座を獲得。そして、1991年9月19日には、グレグ・リチャードソン(アメリカ)を破り、当時としては国内最速となるWBC世界バンタム級王座を獲得するのである。

 丈一郎という名前と、独特の風貌、突き刺すようなリードジャブ、華麗なフットワーク、射るようなカウンター、捻じ込むようなレバーブロウ、迫力のあるラッシュと、人気漫画『あしたのジョー』の主人公・矢吹丈になぞらえ「浪速のジョー」と呼ばれ絶大な人気を博した。90年代に最も集客力を誇った日本人ボクサーであることは間違いなく、その“序列”こそが「辰吉対薬師寺」の呼び名になったことは言うまでもなかった。

「興行権争奪戦」が始まった

 前篇で述べたように、2009年12月、筆者は薬師寺保栄本人を招いて、「薬師寺保栄と一緒に辰吉戦をフルラウンド視聴する」というトークライブを開いた。その際、この呼び順について質すと彼はこう答えた。

「もちろん、いい気はしなかったです。だって、王者は僕で向こうは暫定王者ですからね。記者の人ですら『辰吉と薬師寺の試合は』って言う。“せめて俺の前では『薬師寺と辰吉』って言えよ”って思いました。ただ、こればっかりはしゃあない。向こうの人気が上なのは言われなくてもわかってますから。だから、せめて開催地は地元の名古屋でやりたかった。最初は“大阪まで乗り込んだってもええ”とか思ってたんですけど“いや、待てよ”と。チャンピオンはこっちなんだから、迎え撃つのが自然な気がしたんです」

 この発言にもあるように、試合が実現するまで最も難航したのが「興行権をどっちが持つか」だった。それによって開催地はもちろん、放映するテレビ局も決まるからだ。この「興行権争奪戦」こそが、事実上、世紀の一戦の前哨戦だったと言っていい。

【次ページ】 「興行権争奪戦」が始まった

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