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「メッシとマラドーナは知ってるけど…」実は“うろ覚えなアルゼンチンとW杯史” 優勝3回も“もっと勝っていたはず”不運の時代とは 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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photograph byKaoru Watanabe/JMPA,Getty Images

posted2023/01/29 11:00

「メッシとマラドーナは知ってるけど…」実は“うろ覚えなアルゼンチンとW杯史” 優勝3回も“もっと勝っていたはず”不運の時代とは<Number Web> photograph by Kaoru Watanabe/JMPA,Getty Images

念願のW杯トロフィーを手にしたメッシとマラドーナ。2大スター以外の「アルゼンチンフットボール史」の全容は意外と知らないかも?

 その後、1940年代には爆発的な攻撃力を発揮して「ラ・マキナ」(ザ・マシン)と呼ばれたリーベルプレートをベースとする代表チームが黄金時代を迎え、6度の南米選手権のうち4度制覇するなど圧倒的な強さを誇った。

 ところが第二次世界大戦が勃発したため、FIFAは1942年と1946年のW杯を中止した。南米では、「もし1942年と1946年にW杯が開催されていたら、どちらもアルゼンチンが優勝していたのではないか」と言われている。

 この頃に出現した世界的なスターが、アルフレッド・ディ・ステファノである。

 圧倒的なスピードと華麗なテクニックでマーカーを翻弄し、味方選手に決定的なパスを送り届け、両足と頭で美しいゴールの山を築き、なおかつ守備面でもチームに貢献する完璧なプレーヤー。金髪を靡かせて疾走したことから「ラ・サエッタ・ルビア」(ブロンドの矢)と呼ばれた。 

 1945年からリーベルプレートで頭角を現わし、1949年からコロンビアの海賊リーグ(元のクラブに移籍金を払わず引き抜いたため、FIFAが公認しなかった)でプレーした後、1953年にスペインへ渡ってレアル・マドリーで中心選手として大活躍。1955年に創設されたヨーロピアン・カップ(現在の欧州チャンピオンズリーグの前身)で5連覇を遂げる立役者となった。

 1945年に第二次世界大戦が終わり、1950年に隣国ブラジルで戦後初のW杯が開催された。しかし、アルゼンチンは大会をボイコット。その理由は明らかにされなかったが、ディ・ステファノら主力選手の多くがコロンビアの海賊リーグでプレーしていたためW杯に招集するのが困難だったこと、時の独裁者フアン・ペロンがアルゼンチンサッカー協会に「参加するのなら、絶対に優勝しろ。それが無理なら参加するな」と圧力を加えたことなどが考えられている。

“格下”だと見ていたブラジルに先を越されたが

 ブラジルは、1950年大会の最終戦でウルグアイに逆転負けを喫して準優勝に終わった。しかし、1958年スウェーデン大会で17歳の天才少年ペレを擁して初優勝。一方、アルゼンチンはグループステージ(GS)敗退と明暗が分かれた。

 続く1962年チリ大会でも、ブラジルは右ウイングのガリンシャの活躍で連覇を遂げたが、アルゼンチンはまたもやGSで敗退。長い間、“格下”とみなしていたブラジルに追い抜かれたのである。

 その後は1966年大会でベスト8に食い込んだが、1970年大会では南米予選で敗れて出場を逃した(アルゼンチンが南米予選で敗退したのはこの大会だけ)。ブラジルがペレ、リベリーノ、トスタンらの活躍で3度目の優勝を飾ったのとは天地の開きがあった。

 1974年大会も2次リーグで敗退したが、1978年大会の誘致に成功すると、時の軍事政権がセサール・ルイス・メノッティ監督に優勝を厳命する。2次リーグでブラジルと勝ち点で並んだが得失点差で上回って勝ち上がり、決勝でオランダを延長の末に倒して悲願の初優勝を遂げた。

マラドーナが伝説となり、堕ちた英雄となったW杯

 続く1982年スペイン大会では、21歳の若きマラドーナが初出場。しかし、2次リーグのブラジル戦で相手選手を蹴って退場処分を受け、チームも敗れ去った。

 それから4年後のメキシコ大会では、そのマラドーナが伝説となる。

【次ページ】 名将ビエルサ、若きメッシをもってしても

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