“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
「三笘選手は憧れ。でも、僕は僕」挫折を乗り越えたドリブラー名願斗哉(18歳)は“第2の三笘”になれる?〈夢叶うJ1川崎入団〉
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byYUTAKA/AFLO SPORT
posted2023/01/19 11:30
選手権は悔しい結果に終わったが、憧れのクラブだった川崎フロンターレでプロのキャリアをスタートさせる履正社MF名願斗哉。切れ味鋭いドリブルが武器
「小学校の時からフロンターレのサッカーが好きで、『自分もあの中でサッカーがしたい』と思っていました。将来、あの水色のユニフォームを着てサッカーすることが大きな夢でした」
憧れのフロンターレでプロのキャリアをスタートすることになった名願だが、ここまで決してエリート街道を歩んできたわけではない。
小学校6年の頃、いくつかのJリーグの強豪ジュニアユースから誘いがくるほど将来を期待されていた名願は、「中学生になったらフロンターレのジュニアユースに入りたい」と川崎U-15入りを模索。しかし、家族での引っ越しが必要だったことからセレクション受験を断念し、吹田スタジアム近くの実家から通えるガンバ大阪ジュニアユースに進んだ。
トップ昇格を目指して歩み始めた名願だったが、徐々に試合に絡めない時間が続き、最終的には守備戦術の理解度の低さを指摘されてユースへの昇格を逃してしまう。ならば、と真っ先に憧れに近づける川崎U-18のセレクションを受けるべく情報を集めたが、寮がなかったことで再び断念。その後に受けたベガルタ仙台ジュニアユースのセレクションでも「合否保留」を告げられたことで、「今の自分の実力では(Jユースは)厳しいと思った」と、現在地を明確に理解させられた。
平野監督「とてつもない選手になると思った」
そんな失意に暮れる少年に声をかけたのが、履正社の平野直樹監督だった。平野監督は当時の名願の印象をこう振り返る。
「斗哉は他の選手にはない独特なリズムのドリブルを持っていた。これだけの個性を消さないようにしながら、いかに守備やチームの中で特徴を出せるようにするかを身につけさせたら、とてつもない選手になると思った」
当初はJユースにこだわっていた名願だったが、平野監督の熱意に惹かれて履正社に進学することを決意した。
「高校サッカーでもう一度這い上がる」と心に決めたことで何かが吹っ切れたのだろうか、中学最後の大会である高円宮杯全日本ユース(U-15)でレギュラーを掴み取って日本一を経験。「ちゃんと自分を知った上で努力をすれば必ず報われるんだ」という後に生かされる教訓を高校進学前に得ることができた。