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5年前まで女子高だった新鋭校からドラフト指名「自信がない」早生まれ&実績ゼロ左腕をどう育てた?「タケノコのようにすくすくと」

posted2023/01/15 17:00

 
5年前まで女子高だった新鋭校からドラフト指名「自信がない」早生まれ&実績ゼロ左腕をどう育てた?「タケノコのようにすくすくと」<Number Web> photograph by Yu Takagi

躍進著しい浦和麗明高から初のプロ野球選手となった吉川悠斗(右/ロッテ育成1位)。佐藤監督は3年間の道のりを嬉しそうに振り返った(写真は昨年撮影)

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 3年前の春は、こんな吉報が届くなど誰も予想していなかった。

 2022年10月20日に行われたドラフト会議でロッテから育成1位指名を受けた埼玉・浦和麗明高校の吉川悠斗(ゆうと)。身長185センチの長身から最速143キロとブレーキの利いたチェンジアップなどを投じる将来性豊かな大型左腕だ。

 この吉川、実は中学時代までの実績は皆無だった。

“学業優先”「野球には自信がなかった」

 2005年3月14日に埼玉県吉川市で生まれた吉川は、幼馴染の友人の父がコーチをしていた吉川グリーンズで軟式野球を始め、中学では吉川美南ボーイズで硬式野球をプレーした。

 早生まれの影響で成長が遅かったのか、170センチ足らずの身長だった吉川は本人いわく「4、5番手のサイドスロー投手」。そのため高校は勉強優先で、自宅から通学しやすい浦和麗明に進学した。

「野球はそんなに自信がなかったので、偏差値が高くて大学にしっかり行ける学校を選びました」

 吉川と同様に、浦和麗明もまた当時はまだ創部3年目で実績はほぼゼロ。15年に小松原女子から改称して18年に共学化。少子化時代での私学生き残りをかけた進学校化も成功し、野球部は共学化に合わせて創部されている。

 率いる佐藤隼人監督(39歳)は東京成徳大深谷高から国学院大で野球を続け、高校野球の指導は母校でコーチや部長として9年にわたる。姉妹校の叡明(赴任当時の校名は小松原)で野球部部長を5年間務めた後、浦和麗明の創部に伴い監督としてやってきた。

 周辺には浦和学院や浦和実といった野球強豪校が多いエリア。アクセスが良い浦和という立地とはいえ、新鋭校が良い選手を集めるのは決して容易なことではない。そこで佐藤監督は「他の強豪校と同じことをやっていてもダメ」と、文武両道の学校方針に合わせて練習時間を短くした。平日練習は通常2時間半弱程度。9月下旬に取材した日は40分×2クールのメニューで終了していた。丸刈りの非強制化(校則の範囲内での頭髪自由化)など時代に合わせた指導で創意工夫してきた。

 そうして集まった1期生や2期生がチームの土台を築き、「さあ、ここから飛躍を」というフェーズで入学してきたのが3期生となる吉川らの世代だった。

【次ページ】 「細身だったけど、“バネ”があった」

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