Sports Graphic Number MoreBACK NUMBER
堀米雄斗を金メダルに導いた“3人のオヤジ”「雄斗は一番飲み込みが悪かった」「若い奴らには物やお金じゃなくチャンスを与えるのが一番」
text by
雨宮圭吾Keigo Amemiya
photograph byTomonori Taneda
posted2023/01/07 11:00
スケートボード五輪初代王者の堀米雄斗。1月7日に24歳の誕生日を迎えた
才能を認めると自然と指導に熱が入った。内容は徹底的に基礎の反復。バーチカルでのターンを繰り返し、さまざまな動きを身に付けさせた。一方で葛藤もあった。パークには理屈もわからず我が子に怒鳴るだけの、今で言う“毒親”がすでにいた。自分が雄斗に教えているのは経験と知識に基づいた理に適った内容だ。しかし、褒め下手でどうしても口うるさくなってしまう。
「スケートボードってそういうものじゃないと分かっていながら、最初のうちは抑えきれないところがあったんです」
そんな時に助けになってくれたのはローカルの仲間たちだった。
「雄斗、すげえな!」「このトリックができたらアイス買ってやるよ」
そうやって盛り立ててくれる大人たちの存在によって息子はスケートボードを楽しめているように見えた。雄斗は大人たちの輪に入っても物おじせず、そしてよく可愛がられた。板を抱えてひとり電車で1時間近くかけて通っていたから、そんな姿も愛らしかったのかもしれない。タクシー運転手の仕事が忙しくて迎えに行けないときには、仲間がよくバイクで送り届けてくれた。
「めんどくさい親父と楽しくさせてくれるローカルの人たち。そのバランスがよかったんじゃないですかね」
「パパ、あっち行って!」父が感じた引き際
雄斗が初めて海外に遠征したのは小5の時、韓国で行われたバーチカルの大会だった。この時は同種目の日本の第一人者、小川元が面倒を見てくれた。現地で有名な海外選手に褒められ、子どもなりに世界で戦えるという手応えも得たようだった。
自信と自意識が芽生え始めた雄斗に、この頃から少しずつ変化が起きる。まずプロと行動を共にする機会が増えた。早川の『HIBRID』、立本和樹の『TUFLEG』といったチームに所属しながら、次第にストリートでの活動に軸足を移していった。その影響もあったのだろう。亮太が日課のように見せていたスケートビデオを今まで以上に熱心に見るようになった。そののめり込み方はスケートビデオが大好きな亮太をして「異常」と思えるほどだった。
そして、父親を遠ざけるようにもなった。
「自分がパークに行くと『パパ、あっち行って!』って感じでしたね。まあ僕らの反抗期に比べたら可愛いもんですけど」
2012年、13歳の雄斗がスウェーデンの国際大会ジュニア部門で優勝した頃、亮太は周囲から「そろそろ雄斗から離れる時期じゃない?」と言われ始めたという。当初は「まだまだ教えたいことがあるんだよ」と返していたが、早川や立本のチームで滑る姿を見るうちに思い直していく。
「ああ、もう俺は必要ないなと。だってそうでしょう。プロの人たちとああでもないこうでもないと言いながら楽しくやっているんだから。昔の自分と同じだなと思ったんです。そこが引き際でしたね」
滑りながら仲間を作り、競い合い、楽しむ。スケートボードの本質的な楽しさを雄斗はもう掴んでいた。中学では同級生のスケーター仲間もできた。その頃から父子で滑ることはほとんどなくなった。