#1038
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[証言で辿る半生]YUTOを導いた“3人のオヤジ”

2021/10/21
その軽やかなトリックと身のこなし、そしてクールな表情で世間を魅了した初代五輪王者。自由をテーゼとし、育成システムの存在しないスケートボードの世界で、22歳はいかに未知の扉を開け、頂点へ上り詰めていったのか。機会を与え、寄り添い、支えてきた“オヤジ”たちに話を聞いた。

 堀米亮太は荒川沿いをピストバイクで息せき切って走っていた。勝負を仕掛けてきたロードバイクと競り合いながら必死にペダルを踏む。有明のスケートパークでオリンピックの戦いに臨んでいる息子のことはその瞬間頭から消えていた。

《今回だけはちゃんと観てくださいよ》

 大会前にメールを送ってきたのは、高校時代から親交のある日本代表コーチの早川大輔だった。昔から自分が見ていると雄斗の成績が振るわないのがジンクスになっていた。ところが6月の世界選手権では珍しく勝った。だから今回のオリンピックも仕事を休みにして見る気になったのだ。

 それなのに……雄斗の予選の滑りはまったく精彩を欠いていた。

「ダメだこりゃ! やっぱり走りに行こう」

 そう考えて家を飛び出した。

 亮太もスケート少年だった。中学時代にスケートボードと出会い、高校時代は地元の埼玉から都内のさまざまなスポットに通った。海外スケーターのビデオを擦り切れるまで見て、草大会ではそれなりの成績を収められる実力があった。

「でもあまり大会って好きじゃなくて、普通にプロの人たちと滑っていたからわざわざ大会に出なくてもいいやと思ってました。自分が始めた場所はスケートボードのホットスポットから少し外れたところにあったので、そういう人たちと知り合えて滑れるだけでもすごいことだったんです」

 息子にスケートボードをやらせたのは自分のためでもあった。結婚しても大手を振ってスケートボードをするには息子を連れて行くのが手っ取り早い。雄斗が歩き始める前から地元の公園に連れて行き、そして自然な流れで雄斗は小学校に上がる頃に本格的に始めたのである。

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photograph by Ryota Horigome

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