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「表に立つのは申し訳ない…」“競馬界から消えた天才”田原成貴が評論家として再起するまで「暗い部分があるからこそ、楽しく伝えたい」
text by
島田明宏Akihiro Shimada
photograph byNaohiro Kurashina
posted2022/12/24 17:01
『Number』1061号で19年ぶりに小誌に登場した田原成貴氏。有馬記念を前に、あらためてロングインタビューを敢行した
「一度目の凱旋門賞、池添君なら勝っていた」
時は前後するが、田原氏が競馬界を離れている間に、2005年のディープインパクト、2011年のオルフェーヴルと、2頭のクラシック三冠馬が出現した。そうした名馬の走りを、リアルタイムではどのようにとらえていたのだろう。
「ディープインパクトは特別だね。3位入線後失格になった凱旋門賞は、スタート後の数完歩から気負って走っていた。それが日本のときとは違う、早めの競馬につながったんだと思います。惜しい競馬でした。ああいう馬が出ているときは見ていたから、ファンの立場で、スターホースが出たら盛り上がるというのは、本当によくわかりましたね」
オルフェーヴルはどうか。
「すげえなあ、と思いました。一度目の凱旋門賞、池添(謙一)君なら勝っていたよな、といつも言っているんです。面白い馬だったよね。阪神大賞典の3コーナーで逸走したときだって、池添君はミスなく乗っていたと思いますよ。あれは騎手の責任ではない。あそこまで行っちゃうとね」
では、自身のレース、1年ぶりの実戦となったトウカイテイオーを奇跡的な勝利に導いた1993年の有馬記念や、先行馬と見られていたマヤノトップガンで鮮やかな後方一気の差し切り勝ちをおさめた1997年の天皇賞・春などの動画を、今、あらためて見直し、精査することはあるのだろうか。
「原稿を書くためにわざわざ見直すことはないですね。YouTubeの『田原成貴、語る。』のときにスクリーンで見るぐらいかな。ほら、頭に入ってるから。でも、自分の記憶を頭のなかで変えちゃっていることもあって、マヤノトップガンの天皇賞・秋は2着だったのに、ずっと3着だと思い込んでいた(笑)。まあ、負けたのは事実で、勝てなかったら2着も3着も一緒だという意識が、記憶の定着に影響したのかな」
そう話す田原氏は、騎手時代から漫画『ありゃ馬こりゃ馬』(作画・土田世紀)の原作をしたり、エッセイを書いたり、ライブ活動をしたりと、騎手の枠を超えてファンを楽しませてきた。